「夕方、本庁から電話があったの。またかけ直すって言ってたけど、心当たりはある?」
帰宅の挨拶を交すなり、妻の環の報告を聞く。
本庁。ついそんな言い方をしてしまう環を、倉科は笑った。環もつられたように笑った。
「本庁はないだろ。警察って言うのが普通だ」
そう言いながら、倉科は思案した。本庁とは警視庁を指す。特別地方公共団体である東京都の治安を守るのがその役割だ。倉科が住む青森の、県警からの電話ということならばまだ分かる。いわば首都警察としての機能を果たす警視庁が一体何の用だろうか。まるで見当がつかなかった。
「大丈夫よね?」
環の声が震えているように聞こえる。倉科はほんの少しでも妻を不安にさせたくはなかった。「大丈夫だよ。心配ない。まったく心当たりはないから」
環が倉科にメモを差し出した。環の字は美しい。その整った文字で『警視庁捜査一課 山脇』とある。知らない名前だ。
「またかけ直すとしか。一応、あちらの電話番号を訊いておいたけど」
「そうか。こっちからかけてみるよ。面倒なことは早く終わらせたいから」
メモを見ながら、『〇九〇』で始まる携帯電話の番号を押した。山脇と名乗る刑事が電話口に出るまでの間に、環は倉科の鞄を手に二階に上がった。
「はい」
聞き慣れない男の声は、若かった。
「遅くにすいません。倉科と申しますが、先ほど自宅にお電話をいただいたそうで」
「お忙しいところ、突然お電話差し上げて申し訳ありません。ちょっとお伺いしたいことがありまして」
山脇の言葉に探りの気配はない。倉科はほっと胸を撫で下ろした。
「何でしょう?」
「その前に」相手の携帯電話の向こうに人の気配がした。「上司に換わります」
少しの間を置いて、女の声が電話口に出た。
「警視庁捜査一課の桜田と申します」
その名前、その声。
倉科はにわかに目の前が曇る自分を理解した。
「一戸達樹という人物を覚えていらっしゃいますか? 六年前、三年生のときに先生がクラス担任をされた、卒業生です」
「はい。覚えています。彼は今、都内で新聞記者として働いているはずですが?」倉科は自らを落ち着かせようと、声のトーンを抑えた。しかし、もうひとつ別の闇が胸をふさぐ。何か大きな存在に心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを防ぐことができなかった。「彼がどうかしましたか?」
受話器の向こうから、桜田の呼吸音が聞こえる。
「二月十二日、日曜日。今から一週間前の夜、都内の路上で何者かに刺されて亡くなりました」
『永遠の花嫁』第一章「早雪」A1
『永遠の花嫁』
