牛乳を注いだグラスを二つ、テーブルの上に置いた。
「ありがとう。いただきます」
「こちらこそ。ささやかな一宿一飯の恩義でごめんなさい。いつもながら」
こんな一日の始まりを人は何と呼ぶのだろうか。平凡な、平凡な、あまりにも平凡な。
「たまにはゆっくりできるといいのに」
トーストにバターを塗りながら男が言う。
「ゆっくりできるとしたら、どんなふうに過ごしたい?」
馬鹿なことを訊いたものだと思う。
「そうだな。おにぎりでも持って公園に行って、ベンチに並んで座って食べる」
「ふふっ」桜田は笑った。「こんな真冬に、それはないんじゃない?」
凛と冷えた空気の中。ぐるぐると首に巻いたマフラーに顎をうめて、高田と並んで握り飯を頬張る自分の姿を思い描いてみる。悪くない。笑ってはみたものの、そう思える。
「そうね。そんな時間の過ごし方ができればいいのにね」
自分の手元の皿に目を向ける。目玉焼きが手つかずのままだ。白身にフォークを刺して目玉焼きを固定し、黄身にナイフをあてる。黄身の表面を覆う薄い膜が、ナイフの力によって緩やかなくぼみをつくる。そこにもう少しだけ力を込めると、ふつりと破れた。ゆっくりと、鮮やかな黄色がこぼれ落ちる。
「ねえ、私は、誰なんだと思う?」
今日の自分はどうかしている。高田は不思議そうに顔を上げる。この日初めて目と目を合わせた。
「今さら、何だよ」
「気にはならないの?」
高田は目を伏せる。
「君は、君だ。他の誰でもない」
だからどうでもいい。そんな言葉が続くことを想像してみる。そして、恐らくそれが現実なのだろう。
携帯電話がテーブルの上でかたかたと震えた。手を伸ばしてディスプレイを表示させた。そこには直属の上司の名前と番号が浮かび上がっている。
「はい、桜田」
高田に伝えている真実はこの名前だけだ。そのことにあらためて思い至った。
『永遠の花嫁』第一章「早雪」B2
『永遠の花嫁』
