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二月二十六日、日曜日。青森ではまだ雪が残っているのに、東京の空気には春のにおいがした。
倉科は木々の若葉に見え隠れする小道を辿っていく。黒く深い森が点在し、倉科を飲み込んでは吐き出した。とりわけ大きな森に差し掛かった。このまま歩みを進めてもいいものかどうか、目の前の空間がいつまでも開けないことに、倉科は不安を覚えた。
木々が織りなす陰の先に、突如として白い穴が開いた。小高い丘の上に、光を浴びて白く輝く四角い建物が唐突に姿を現した。倉科は一旦建物を見上げ、目を細めた。そして正面玄関に続く道をさらに進んだ。
両開きの鉄製のドアの前に立ち、傍らの呼び鈴を押した。辺りは異様なほどの静寂に包まれている。ときどき聞こえてくる小鳥のさえずりが、かえって静けさを際立たせた。
ふと、ドアが開かれた。そこに黒服の男が一人、真っ直ぐに立っていた。
「先日電話で連絡した弘前市の倉科です。今日はよろしくお願いします」
今度新しく児童福祉課に配属された。市民が過去に世話になってきた施設について知っておきたいので、訪問させてもらえないだろうか。そう電話で打診した。どのような審査を経たのかは分からないが、数日後に施設側からの許可が下り、訪問の段取りが整った。そして今、倉科はこの場に立っている。
「お待ちしておりました。私は高橋といいます。さあどうぞ、お入りください」
高橋は倉科を建物の中へと促した。
「この施設は今から十年ほど前に、大手医薬品メーカーの創業者によって設立されました」
高橋の説明によれば、その男は敬虔なキリスト者で、何か人の役に立つことに企業収益の一部を充てたいと考えていた。その答えの一つがこの花庵だという。
倉科は靴を脱ぎ、一言の礼を述べて高橋がそろえたスリッパをはいた。
「主にどんな人たちが入居されているんですか?」
「何らかの理由で保護者を失くした学生たちです」高橋は例を挙げながら説明した。死別の場合も、失踪の場合もある。理由は実に様々だ。「いずれの場合も資金的な援助なしでは学生でいられない者たちです」
倉科がスリッパをはいたのを確認し、高橋は廊下を歩き出した。倉科はその横に並んで歩いた。
「学生ということは、主に大学生ということになりますか?」
「いえ。広い意味で学校に通っている者たちということです」
要するに、社会人として自分で収入を得ることができるようになるまで生活する場所ということになる。しかし、入居の基準のひとつに、二十二歳以下という年齢制限を設けている。現実的には十八歳から二十二歳まで。この年齢層を支える施設が、まるで抜け落ちたかのように日本には数が少ない。それを補うのがこの施設なのだと高橋は言った。
「それにしても静かですね。日曜日の午後ですから、皆さんどこかに出かけているんでしょうか?」
「いえ。日曜日だからこそ、多分、ほぼ全員施設内にいると思いますよ。自分の部屋か図書室か」
倉科は驚いた。
「毎日、こんなに静かなんですか?」
「皆、できるだけ目立たないようにっていうのがあるみたいですよ」
「なぜです?」
「さあ、どうでしょうか。私には分かりません」
高橋は、寂しく笑った。
『永遠の花嫁』第二章「粉雪」A10
『永遠の花嫁』