「どうしてこれを? 椿は何ひとつ残さずに姿を消したのでは?」
高橋は静かに微笑んだ。
「その通りです。実は、これは椿さんと一緒に一度は消えたものです」
母親とのささやかな生活を支えてきた、わずかばかりの家財道具を処分してこの花庵にやってきた川村椿は、文字通り身ひとつだった。花庵が新たな入所者に配布するものは決められている。部屋と寝具と、身の回りの品々を揃えるための準備金。この他に十分な食事さえあれば、生きていくことに支障はない。
その他にたったひとつだけ与えられるもの、それがこれだった。
「では、なぜ今ここにこれが?」
「椿さんがいなくなって数ヶ月後のことです。差出人の名前が書かれていない小包で、二通の封書と一緒に郵送されてきました」
「どうしてこれを私に?」
「小包に同封されていた二通の封書のうちの一方には、宛名として私の名前が記されていました。しかし、もう一方に宛名はありませんでした。私に宛てられた手紙にはこうありました。これは椿さんが愛用していたものであること。そして、椿さんを訪ねて来る人間がいたら、その人に宛名のないもう一通の手紙と一緒に渡してもらいたいと」
「私の他に、これまで川村椿の消息を訪ねて来る人間はいなかったんですか?」
「それぞれ別のタイミングで何度か訪ねてきた人間が二人いました。初回は椿さんが姿を消した数日後の夜でした」高橋によれば、二人とも何か堅い仕事をしている、そんな印象の男だった。「スーツをきっちりと着こなしていた姿から抱いた印象だと記憶しています」
「その男たちの名前や肩書は?」
「二人とも分かりません。名乗りませんでしたし、自分たちに関することは何も言いませんでした。ただ」
「ただ?」
「一見したところ身なりはきちんとしていましたけど、私には分かります。彼らはいわゆる堅気ではありませんでした」
「何をしに来たんでしょう?」
「倉科さん」
そう呼びかけられ、高橋の言葉を受け止める姿勢をとった。あなたが今ここを訪れている理由には、一応もとの入所者を心配する名目が含まれている。だから我々は受け入れることを決めた。しかし今後、我々に対する攻撃の要素が少しでも垣間見られるようなことがあれば、我々はあなたに何らかの圧力をかけて全力で潰しにかかる準備をすることになる。誰かを守ろうとするときには、実力が必要になる。そして、我々にはその実力がある。それは、この国の政治や経済や、ある種の暴力的な力をもつ集団さえうっかり手を出せないレベルのものだ。時として、社会にはそんな力が必要とされる。あなたはそのことを十分承知した上で行動した方がいい。高橋はそう念を押した。
『永遠の花嫁』第二章「粉雪」A15
『永遠の花嫁』