『永遠の花嫁』第二章「粉雪」A17

『永遠の花嫁』

 東京駅で倉科が六時台の新幹線に乗り込んだころには、窓枠に区切られた向こうの空間がすべて闇に塗り潰されていた。日曜日の夜、地方に向かう新幹線は意外にも混んでいた。
 発車を告げるアナウンスが、窓を隔てたホームに流れている。車掌の笛の合図で、車体はゆっくりと倉科の体を前方へと押し出した。倉科は手の平を右の頬にあて、窓枠に頬杖をついた。闇を背景に鏡と化した窓に、疲れた男の顔が歪んで映っていた。試みに口元を曲げてみると、窓の中の男もそれに合わせて口角を吊り上げた。
 倉科はふと思い立ち、隣の座席に放り出していた鞄を開けた。中から高橋に預けられた包みを取り出した。これを倉科の手に渡したときの、高橋の照れたような顔が甦った。
 包みを開くと、倉科が予想した通りのものが出てきた。重さや質感。包みを通して得られるわずかな情報から、それが倉科にとっても慣れ親しんだものであることがうかがい知れた。
 そこには、『聖書』と封書があった。
 椿は何度も何度もページを()ったのだろう。親指が最も頻繁にあたる位置が、手垢にまみれて黒ずんでいた。倉科はその位置にそっと自分の親指をあてがった。しばらくの間そうしてからページを開いた。目に飛び込んでくるページには主に赤と青で繰り返し線が引かれ、色が塗られ、殴り書きが刻み込まれていた。
 この『聖書』に、倉科は川村椿の戦いを見た。
 厚い『聖書』たるところに書き込みが施されている。その量から、椿がこれを読むことに充てたエネルギーの量が分かる。内容に時には共感し時には反発をぶつける、その力の大きさを読み取ることができた。
 そこにはまさしく混沌があった。
 倉科は『新約聖書』のページをぱらぱらとめくった。原文の文字が読み取れないほど書き込みが集中しているページがあることに気がつき、指をとめた。
 ヨハネによる福音書。
 イエスが裏切られ、拘束され、処刑され、復活するまでのくだり。大小、色、肯否定。見た目も内容も様々な文字が刻み込まれている。
〈ユダ。存在してはいけない人間。わたしと同じ〉〈裏切り者は一人だけか。全員が少しずつ、少しずつ〉〈見捨てられ、取り残されるのではないか。裏切る側の葛藤、不安は〉〈あの女に盾にされた。守ってやったのに〉〈あの人も苦しかったのか。仕方なかったのか〉〈許せない。許せるわけがない〉〈何度も同じ質問。本当は怖かったのだろうか。怖くないはずはない〉〈任せておけばいい。裏切るはずがない。一心同体〉
 誰のどの言動に対する考えなのかは分からない。ただ、膨大な時間、椿がたった一人で自分の胸の中にぱっくりと口を開けた孤独と戦っていた事実が、倉科の胸を強く締めつけた。倉科は苦しくなって、一旦『聖書』を閉じた。
 封筒を手に取った。倉科がそれまでに手にしたことがある手紙のなかでも最も分厚いのではないか。宛名はない。もう一通、高橋に宛てられた手紙のなかに、倉科に渡すべきものであると書かれていたという。倉科が見た限り、開封された形跡もまた、ない。
 帰宅してからゆっくりと開封するつもりでいた。しかし、周囲に人が存在はしていても干渉される心配がない今だからこそ、ゆっくりと読めるのかもしれない。そう思い直した。何よりも、内容が気になる。倉科は封入されている手紙を傷つけないよう慎重に封を切り、手紙を取り出した。
 何の変哲もない便箋が十二枚。なかを開くと、罫線に沿って文字がびっしりと敷き詰められている。妙に力が抜けたような、癖のある文字が倉科の微笑みを誘った。

タイトルとURLをコピーしました