『永遠の花嫁』第二章「粉雪」A19

『永遠の花嫁』

 ある日、私はクラスメイトの何人かと、椿のアパートまで行きました。その年頃にはよくあることだと思うのですが、相手の気に留められたくて、わざと困らせることをするような遊びの感覚でした。ただ単純に、転校してきたばかりの同級生に興味があったのも事実です。
 しかし私は、自分の稚拙な行動にえも言われぬ罪悪感を覚えました。そのアパートを見上げてすぐ、椿の生い立ちやその後の生活に、私の場合と似たような暗さがあると悟ったからです。それはごく感覚的なものにすぎません。しかしだからこそ、間違いのないものとして、私のなかにその思いが落ちてきたのです。翌日、私は一人で椿のもとを訪ねました。前日の騒ぎを申し訳なく思っていると、謝りたかったからです。
 その日椿は学校を休みましたが、開け放った窓辺に座ってぼんやりと外を眺めていました。窓の下に立って前日の謝罪を伝える私に、椿はようやく聞き取ることができるような小さな声で部屋まで上がって来るように言いました。まるで目には見えない鎖で引き上げられるように、私は戸惑いながらも椿の部屋に向かわずにはいられませんでした。
 椿はドアを開けて待っていました。私の手をとって薄暗い玄関に上げると、何も言わずにそっと右の手のひらで私の左頬に触れました。次に左の手のひらで右の頬に。さらさらとした彼女の指先の冷たさを、今でもはっきりと思い起こすことができます。
 椿は私の顔を両手で包み込んだまま、そっと引き寄せました。そして、私の額に自分の額を合わせました。目をつぶってというささやきが、どこか遠くから聞こえてくる風の音のように感じられるほど、私の鼓動は高鳴り、胸が張り裂けんばかりに動揺していました。その高鳴りをなだめるように深く息を吸い込み、私はそっと目を閉じました。次の瞬間、私の唇に何かが触れました。それまでに一度も経験したことがない柔らかさに、私は体中が溶けるような、温かい感覚に包まれました。それは、椿の唇でした。私にとって初めての口づけであり、その時点までの短い人生のなかで唯一触れた柔らかさと温かさだったのです。
 私はむさぼるように椿の唇を求めました。椿は私の勢いを少しずつ削ぎ落としながらも決して避けようとはせず、優しく受け止めてくれました。そして私の唇の間にそっと舌を滑り込ませてくれたのです。私は、人の体の甘さを知りました。自分でも、知らず知らずのうちに涙を流していました。確か先生に話したことがありましたよね。幼いころにこれからは決して泣かないと決めたあの日から初めて、ただの一度だけ、椿の口づけのために、私は涙を流したのです。そのとき、私は覚悟しました。これからの人生を、椿を守ることにあてることを。
 そっと唇を離したあと、私の涙に気がついた椿は驚いていました。そしてこう言いました。私のことをこんな風に受け入れてくれたのは、あなたが初めてだと。
 私が椿と交わした口づけは、これが最初で最後です。もちろん、男女が互いに求めあうそれ以上の関係もまた、私と椿との間には成立していませんでした。むしろこのことによって、かえって私と椿との関係は確固たる意味を持ち続けました。お互いに何を求めなくとも、信じあえる相手がいることを疑わずにいられたのです。

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