「何日か前に、クラスの男子が数人でアパートの前まで来ました。外で騒いでいましたが、そのほかは特に何も。毎日、何もありません」
椿は窓辺に座り、外を見ていた。上半身が夕日の橙色にぼんやりと縁取られていた。
「お母さんは?」
「昨日の夕方から帰ってきていません」
この日は水曜日だ。最初から分かっているのに、倉科はあらためて腕の時計の曜日表示を確認した。一晩だけならば、母親の不在もそれほど驚くべきことではあるまい。
「食事は? きちんと摂ってるのか?」
「そうですね、適当に」
夕焼けはいとも簡単に宵闇に空を明け渡す。いつしか透明な群青が、倉科と椿が住む街の空を覆い始めていた。倉科の立つ位置からは、薄闇にまぎれて椿の顔がよく見えなかった。
「行き先は? 分かってるのか?」
「実家に行くと言ってはいました」
「寂しくなかったか? ずっと一人で」
椿は薄く笑ったようだった。
「もう慣れちゃって。何も感じません」
迷ったが、倉科は考えていたことを口にした。この部屋の状況を見れば誰もが心配にもなるだろう。あくまでも一般的な感覚がそう言わせるのだと、自分自身に言い聞かせた。
「お金には、困ってないか?」
一瞬だが、椿が身を硬くしたように見えた。宵の闇に包まれた影が、ほんの僅かに小さくなったように思えた。
「先生、こんなに離れて話をしているのって、変じゃありませんか? 上がってください。お茶ぐらい淹れますから」
椿は立ち上がった。倉科が立つ玄関に向かって真っ直ぐに歩いて来た。
「汚いところですみませんが、どうぞ」
椿は倉科の腕を取り、弱く引き上げた。その力に導かれて足を持ち上げ、靴を脱いだ。
「ここに座って」
倉科を自分がいた部屋に招き上げると、椿は座布団を出した。目の前に小さなローテーブルがある。椿と、母親の真理亜のものだろう。その上にマグカップが二つ、並んでいた。椿はその両方を手に、倉科と入れ違いに台所に消えた。
『永遠の花嫁』第二章「粉雪」A2
『永遠の花嫁』