染みや破れに痛めつけられた襖に遮られ、倉科が座らせられた位置からは椿の姿が見えなかった。蛇口から流れる水を薬缶に受け、ガスコンロに点火する。一連の音が倉科の耳に届いた。
「先生、お茶がいいですか? インスタントでよければコーヒーもありますけど」
襖の向こうからひょいと顔をのぞかせた椿は、笑顔だった。長い髪がさらさらと揺れた。
「お茶がいいな。それより、電気つけていいかな? もうすっかり暗くなってきた」
「あっ、はい、すいません。お願いします」
倉科は立ち上がり、天井の蛍光灯から下がった紐を引いた。短い明滅を繰り返した後、白く弱い光が部屋を満たした。もう一度座ろうとすると、ささくれ立った畳表が靴下に刺さっていた。
「はい。お茶、どうぞ」
いつの間にか椿が側にいた。ローテーブルの上には倉科のための湯飲み茶碗が置かれていた。椿は自分のマグカップを手に、また窓の桟に腰を下ろした。抜けるようにどこまでも遠い夜空を背に、現実の確かさを主張するように椿はそこにいた。
「先生がここにいるのって、何だかとっても不思議」
この日、互いの視線がまともに交差したのは、この瞬間が初めてだった。そのことに気がついて、倉科は視線を手元に落とした。
「学校に来づらい理由って、何かあるか?」
ふう。溜息がひとつ、椿の唇をすり抜けた。
「どうにもならないことばっかり。学校も、辞めることになる。まず、間違いなく」
「さっき言ったのは、例えば授業料の減免とか、学校として応援してあげられる方法がいくつかあるってことなんだ」
椿は窓の外に顔を向けた。
「今更そんなこと、考えたくない」
滑り落ちるように体を動かし、椿が倉科の横に座った。膝を折り、両足を倉科とは反対側に投げ出した。左手を畳について体を支えてはいるが、上半身を倉科の胸にぴたりと寄り添わせた。倉科の右の鎖骨の上に、椿の頬が載っている。椿の体から甘い香りが立ち上がってくるのが目に見えるようだ。
倉科は彼女の体を支えるために姿勢を保った。
「先生は、何もかも投げ出したいって思うことある?」
体を寄せ合っているからだろうか。倉科には、椿の声が皮膚を通して伝わってきているように思えてならなかった。
「それは、あるさ。誰にだって、今の自分でいたくないって時がある」
どうすれば椿を傷つけずにこの場面を回避することができるか、倉科はそればかりを考えていた。
『永遠の花嫁』第二章「粉雪」A3
『永遠の花嫁』