『永遠の花嫁』第二章「粉雪」A5

『永遠の花嫁』

 翌日、四月十六日、月曜日。学校に一本の電話が入った。
 椿の母親、川村真理亜まりあを名乗る女は、退学の手続きをとりたいと倉科に申し出た。確かに、それまで椿が学校を休むたびに連絡をよこしていた母親の声に似ているように思えるのだが、川村真理亜の声ではない。鼓膜に甘く絡みつくように濡れた真理亜の声を思い出しながら、倉科はこれは真理亜の声ではないと感じた自分を覚えている。
 退学の手続きを取りたいのだが、どうすればいいか。そう声は続けた。
 学校生活にあって、最も大切な判断をする機会のひとつが、退学にまつわる決定だ。それを電話という安易な方法で、しかも誰が声の主かも分からない状況で易々と受け入れられるものではない。何よりも退学する椿が、その後どのような生活を保障されているのかを確認したかった。そのためには椿本人はもちろんのこと、然るべき人間が学校に足を運び、顔をつき合わせて話をすることが望ましい。それを電話一本で済ませようというのはどんなものか。倉科は考えたことをそのまま話した。声の主は、それでも学校に足を運ぶつもりはないと答えた。それならば倉科の方からもう一度アパートを訪問するので、きちんと話を聞いた上で書類を書いてもらいたいと提案した。そこで電話は唐突に切られた。
            ◆
 二月二十一日、火曜日。一週間に一度、部活動を休みにしている曜日だ。早く帰宅し、家族と夕食を共にすることにしている。しかしこの日、いつも通い慣れた道から車のハンドルを右に切って、かつて椿が住んでいたアパートに来てしまった。七年もの歳月を経て解き放たれた記憶が今、再び倉科をこの場に走らせた。
 椿が何か深刻なメッセージを送っていたように思えてならなかった。彼女がとったあの異常な行動の背後にある理由が分かっていさえすれば、何らかの形で助けることが出来たのかもしれない。  
 目の前に佇む建物には、あの時にも増して激しい傷みが沁み込んでいた。かつて倉科も踏んだことがある鉄の階段はところどころに穴が開き、いつ抜け落ちてもおかしくないほどだ。車の窓から見上げただけでそれと知れる。降りることすらせず、車を発進させるためにシフトを『D』に入れた。しかし、倉科はブレーキから足を上げることができなかった。一台の白いセダンが、倉科の車の前を横切って駐車場に入ってきたからだ。
 不動産屋の車であることはドアのロゴを見れば分かる。恐らく社員なのだろう。運転手が倉科の車に注意を払っている様子は全く見られなかった。しかし、その車の後部座席に二つの人影を認めた瞬間、倉科はつい目を凝らしてしまった。人の視線はどうして相手の視線をも引きつけてしまうのか。相手も、倉科の存在に気がついた。倉科はひとつ舌打ちすると、諦めて相手を待った。

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