あの瞬間、桜田は妹の体がすでに命をもたないものであることに気づいていた。粘土の塊のように黒く腫れ上がり、幾重にも破れた皮膚の間からは赤い肉が血をこぼしていた。
嘔吐にも似た記憶の爆発に、胸の内側が焼けただれるような痛みを覚える。桜田はまぶたをきつく引き結び、大きく息を吸った。そしてゆっくりと息を吐きながら、元の自分に還る作業に意識を集中した。
辛い記憶の前にあえて自分を引きずり出そうとしているのだということも分かっている。できることならば忘れてしまいたいと思う反面、それでも覚えておかなければならないのだという意志がはたらく。私が忘れてしまったら、妹が存在した事実そのものが無くなってしまう。
だが、この日は耐えられなかった。記憶の中から自分で妹の姿を呼び戻しておきながら、その影に怯えた。誰かの手が、液体のように形を失った自分の胸の中に分け入ってくる。そして心臓を無造作に握り締める。桜田は声にならない悲鳴を上げた。
列車は見慣れない夜の中に停車した。桜田が降りるはずの駅ではない、途中の駅だ。だが、体が出口を求めていた。吊革から手を放し前屈みになりながら、桜田は駅のホームに転がり落ちるように足を踏み出した。人ごみを掻き分けて、よろよろと歩いた。改札を抜けて、今度は駅舎の出口へと向かう。タクシーの列が目の前に並ぶ。その最前列の一台のドアを軽く叩き、開けさせた。体をシートに滑り込ませ、深く息を吸い込んだ。煙草か汗か夜の街のものか。あの、タクシー独特の匂いが桜田の体を包んだ。
「五反田駅」
桜田がそう告げると、タクシーはするすると走り出した。
高田は部屋にいるだろうか。起きているだろうか。桜田は静かに目をつむった。高田の丸い童顔を思い起こしてみる。肌がやけにつややかで、皺ひとつないものだから異様に若く見える。四十代半ばにもなって雑誌の編集部から小さな記事を任されて細々と生計を立てている男。そのかたわらで小説を書き続け、いつかは何らかの賞を獲って本にすることを目指している、冴えないヤツ。高田の部屋のドアを開くと、そこにあの笑顔が待っている。桜田さんと呼ぶ声が聞こえてきそうだ。そう思っただけで笑えてくる。無理に笑ってみる。
今日は泊まらせてもらおう。高田は何も訊かずに、桜田を部屋にいさせてくれるはずだ。
決して広いわけではないが清潔な部屋。不思議と落ち着く空間。そこにいる人間が自分を安堵させる。仕事も年齢も住所も出身地も、名前以外は自分のことを何も知らないくせに温かく迎えてくれる人。一度だけ肌を合わせたことがある。それはその後の関係を楽にするためだけのものだった。いくら明かりを消した暗がりの中だとはいえ、全身にこれだけの傷跡を持つ女の体をよくも受け入れてくれたものだと思う。
『永遠の花嫁』第二章「粉雪」B13
『永遠の花嫁』