『永遠の花嫁』第二章「粉雪」B14

『永遠の花嫁』

 二十代半ば、桜田は自動車事故に遭っている。その事故によって車を運転していた父親と助手席の母親を失った。一人、薬物依存の治療のために入院していた妹は事故を免れた。車に乗っていた三人のうち桜田だけが、全身にひどい傷を負いながらも一命を取り留めた。特に腹部には、筒状の金属か割れたガラス瓶が筋肉をえぐった跡が残されている。背中には左の肩甲骨の上に深々と裂傷の痕跡が横たわっている。これだけの傷を負って死なず、しかも身体の能力をほとんど損なうことなく回復させることができたのは、ただ単に運が良かったからなのだと、事故を知っている人間たちは口をそろえる。
 しかしそれ以上に桜田を苦しめたのは、頭部への衝撃によって引き起こされた記憶の喪失だ。それ以前の記憶がすべて失われてしまった人間が陥る最大の危機、それは孤独だ。自分の胸の中にぱっくりと口を開けた孤独の恐ろしさを嫌と言うほど思い知らされてきた。
 それは音もなくやって来る。そしてふと、桜田自身を無意識のうちにコントロールして、死をもたらそうとする。その悪魔のような存在から桜田を守ったのが、八鍬をはじめとした医療チームだ。彼らは桜田の失われた記憶を補完し、桜田という人間を再生するために力を惜しまなかった。そのおかげで孤独という名の悪魔を追い払い、再び社会生活を営むことができるまでになった。この過程におよそ五年の歳月を要した。
 しかし妹は、その五年の間に薬物依存から抜け出すことはできなかった。それどころか家にも帰らず、行方をくらませ、さらに深みへとはまり込んでいった。そしてついにクスリによって脳を侵された何人もの男たちの手にかかり、命を断たれた。自ら望んで事の詳細を聞き知った桜田だったが、その詳細にわたる事実を知ってからというもの、特定の男との間に特別な関係を築くことができずにいる。
 高田は桜田に対して何かを求めてくるようなことはない。求められるのも苦痛だが、求められないことに不安を覚えるはずの、男と女の関係がそこにはない。もしかしたら言葉にこそ出さないものの、やはり桜田の体中に刻まれた傷の数々に高田が気味の悪さを感じているのかもしれない。
 しかしその代わりのように、高田との関係には誰かの存在を無難な範囲に感じていられる安心感がある。本当の意味では孤独なはずなのに、かりそめにもそれに気がつく間もなくいつもの自分に戻ることができる。これがかなりの程度歪んだ関係であることは桜田自身にも分かっている。しかし、今はこれしかないのだと、自分を納得させている。
 桜田の中に、窓のブラインドを下ろすような強引な睡魔が降りてきた。五反田に着くまではもう少し時間がある。タクシーの後部座席に身を預け、そっと目を閉じた。

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