桜田はこの男、一戸和人を嫌悪していることを自覚した。顔、表情、声、服装、そしてこの部屋の冷たすぎる空気に対しても。山脇の役割を飛び越えることは憚られたが、つい悪意を込めたカマをかけてみたくなってしまう。
「今日、ここに伺うことを前提に、あなたが東京で高校教師をしていたときの同僚の方たちにも話を聞いてきました」瞬時にして和人は顔を曇らせた。そこには明らかな焦りが見て取れた。桜田は心で笑った。「少々、いえ、かなり気がかりな情報を得ましたが?」
刹那、和人の目が見開かれた。
「何もないはずです」
そう言いながらも激しく動揺する和人の姿に、桜田は少なからず満足した。桜田は和人には見えないように、山脇の背中を指で軽くつついた。それに気がついた山脇は、話題を準備していたものに切り替えた。
「達樹さんと母親の葉子さんとの関係はどうでしたか?」
「特に何も」
葉子が入退院を繰り返しているという事実がある。それは一見理性的な夫によって執拗に繰り返される、自分と達樹への過酷な暴力に彼女の心が耐えられなかった結果としてもたらされている。葉子本人や、彼女を担当している医師の話から、そのことはすでに明らかになっている。
和人と葉子との間には、血を分けた息子がいた。達樹にとっては血のつながらない兄ということになる。歳が離れていたことから、この家で達樹が兄と同居していた時期は短い。
彼もまた、実の父親である和人によって深刻な虐待に晒されていた。毎日のようにふるわれる壮絶な暴力の中にあって、想像を超えるような努力を積み重ねた末に外科医となった。しかし、その先に不幸が待っていた。家庭環境との間にどんな因果関係があるのかは分からない。エリートコースを歩んでいたはずの彼は、弟が新聞記者になってから一年後に首を吊っている。新聞社の同期入社の田村は、兄の訃報を聞いた達樹が親父のせいだとこぼしていたことを明かしている。
「最後に息子さんと連絡を取ったのはいつでしたか?」
「達樹は滅多に連絡をしてきませんでした。しかし、死ぬ三日ぐらい前でしたか、珍しく電話してきたようです。カミさんが取って、何か話していました」
「内容は覚えていますか?」
「近々帰ってくる用事があるということのようでした」
「その用事というのは?」
「私には分かりません。養子だという事実を伝えて以降、私にとって達樹は煩わしいだけの存在になってしまいました。あの子にとっては、私も同じでしょうけど」
山脇は斜め後ろに控えている桜田を振り返った。桜田は山脇の視線を受けて、頷いて見せた。山脇も頷き返した。
「分かりました。朝早くからすいませんでした。そろそろ失礼します」
そう言って立ち上がった。
『永遠の花嫁』第二章「粉雪」B3
『永遠の花嫁』