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二月二十一日、火曜日の午後。桜田と山脇は、川村真理亜と椿が住んでいたアパートを訪ねた。そこに、いるはずのない人間が現れた。
つい前日に話を聞きに行った相手だ。別れてからまだ二十四時間も経っていない。倉科がその場に足を運んでいることの違和感を、桜田は見過ごさなかった。
倉科は事件について何かを知っている。
この男が一戸殺害事件そのものを解く鍵を握っている可能性は低い。しかし、ゼロではない。あるいは、本人ですらその可能性に気がついていないだけなのかもしれない。
ぼろぼろと赤さびが浮き出した鉄のステップは、体重をかけた途端に抜け落ちそうだ。そんなことをしても荷重そのものは変わらないことが分かっていながら、桜田はそろそろと階段を上らないわけにはいかなかった。すぐ後ろをついてくる倉科も同じ思いなのだろう。二人の足取りは滑稽なほどよく似ていた。
「このアパートはもう何年も前に取り壊す予定があったんです。でも、下に一世帯だけ入居している方が困るということで。立ち退いてもらうこともできたんですが、大家さんものんびりとした方なので、ずっとこのままの状態です」
階段を上がり切った踊り場から、山脇と不動産屋の会話が聞こえてきた。まだ二十代なのだろう。不動産屋の社員は髪に流行りのカットを施し、控え目ではあるが脱色している。
不動産屋は部屋の鍵を解除してドアを開けた。蝶番がぎぎっと軋んだ。部屋の空気は真冬の乾いた寒さのために固く張り詰めていた。その反面、長い間閉めきられていた空間特有のすえた匂いが漂い、桜田の鼻にまとわりついた。窓に区切られた空の色があまりに紺碧い。まるで書割のようだと思いながらも、吸い寄せられるように窓に向かって歩いていた。そして息を呑んだ。
「岩木山は津軽富士とも呼ばれています」
桜田の様子に気がついた不動産屋がそう言った。その光景には、感嘆の溜息をもって応じるしかなかった。碧い空を背に座る真っ白な山が、刷毛で引いたようにゆるりと裾野を広げている。
「いや、これは……」
「このあたりの角度が一番美しいと私は思っています」
これまでにない穏やかな口調で、不動産屋がつけ加えた。桜田は振り返った。倉科が玄関先に突っ立っている。
「先生、どうぞ。入ってください」倉科がゆっくりと靴を脱ぎ、部屋に上がる。「この部屋で川村真理亜と椿と話したことを教えてください」桜田は倉科の言葉に意識を集中した。倉科は一瞬顔を曇らせたが、すぐに元の表情を取り戻した。
「私がこの部屋を訪ねたのは、四月の、ちょうどこのくらいの時間でした。川村椿はあの窓に座って外を眺めていました」
蝋燭の炎がふと消えるように、浮かべていた微笑を消し去った倉科が言った。誰に聞かせるでもない独り言のような囁きに、桜田は反射的に倉科の側に身を寄せた。倉科の体から男の汗の匂いが立ち上がってくる。しかしそこに、何かこう、言葉にし難い香りが含まれている。そうだ、これは冬の匂いだ。
「母親の川村真理亜はどんな様子でした?」
「彼女はいませんでした。私が訪問した時点で、前日から帰って来ていなかったようです。それ以降、彼女の足取りは途切れたままです」
桜田は不動産屋に向き直った。
「川村真理亜がこの部屋を借りたときに対応した方は?」
「社長です」
保証人になった真理亜の父親、貞一は、この社長の幼馴染だ。貞一は、今は寝たきりの状態だという。
桜田は溜息をついた。
「そうですか。それでは事務所に戻って社長さんに話を聞きましょう」
「ここはもういいんですか?」
「ええ」
山脇の言葉に短く答えた後、桜田は倉科の方に体を向けた。
「無理にお引き留めしてすみませんでした。先生には後でまた話を聞くことになると思います。そのときはご協力ください」
誰にともなく頭を下げて部屋を後にした倉科の背中を、桜田は真っ直ぐに見送った。
『永遠の花嫁』第二章「粉雪」B5
『永遠の花嫁』