ベッドに向き直ると、達樹の右目だけが力なく倉科を見ていた。頭から左目を経由して顎に至るまで、包帯がぐるぐると巻かれている。
「目は?」
まず、そう訊いた。体の中で最も弱い部分のひとつだ。
「見える」
口が上手くまわらないのだろう。その声はくぐもっていた。倉科は彼の首から下を覆っていた薄い掛け布団を引き剥がした。いかにも病院から借りたというような寝巻きに隠された部分にも、包帯が隙間なく巻かれていた。
「大袈裟なんだよ。いつものことなのに」
倉科は掛け布団をゆっくりと元に戻した。
詳しい怪我の状態が分からない。それでも、達樹の意識がしっかりしている様子を目の当たりにして気が抜けたのが自分でも分かる。そのとき、倉科は自分の頬に熱いものが伝うのを感じた。それとなく拭おうとしたが、上手くできなかった。
「先生、なに泣いてんだよ」
自分でも分からなかった。これまで生きてきた過程で心身ともにあらゆる苦痛を経験してきた自分に、こんなにも自然に湧き出す涙が残っていたとは思ってもみなかった。
「逃げるわけにはいかなかったのか?」
「逃げてたら、いつまでも終わらない。ケンカして勝っても、また新しいやつがケンカをふっかけてくる。こうならなければいつまでも終わらない」
「何でもっと早くやめられなかったんだ?」
「誰にも守ってもらえなかったから。それだけで、人は攻撃してくるもんなんだよ」
「お前には、両親がいるだろ」
「小学校六年生の時、血のつながった親じゃないって教えられた。俺の本当の親は、どこの誰だか分らない」
達樹は、棄児だった。
幾重にも張りめぐらされた審査を通過した里親が、棄児だった達樹を引き受けた。和人とその妻である葉子は、達樹を十分な愛情と経済力をもって育てることができるだろうと判断された。
「殴られても、熱したアイロンの先端を押しつけられても、本当の親なら仕方ないとも思えた。自分のことを良くしようとしてくれてるんだって信じることができた」
「でも、それが他人からのものだと分かった」
達樹は頷いた。
「そのとき、俺の中で何かが壊れた」
それが理不尽な衝動にのみ支えられた卑劣な行為であることを知ったとき、達樹は一瞬にして家の中での居場所を失った。その後の激しい逸脱行動が、この事実を物語っている。家にいたくなくて、外をぶらつくようになったのだと達樹は言った。
倉科は、自分が流した涙の理由にようやく思い至った。
そこに横たわっていたのは達樹ではなく、過去の自分だ。倉科は達樹の姿に自分を重ね合わせていた。
「こんなときって、何でちっちゃいときのこと思い出すんだろう」目をつむったまま、達樹はふと独り言のようにつぶやいた。「こういうさ、辛いときって、何でか知らないけど同じこと思い出すんだ」
誰かの弱みを知りぬいた人間は、その匂いを嗅ぎ分けることができるものなのか。鋭い嗅覚で相手の弱みを嗅ぎ分け、他人の困る顔を見てやろうとする意地の悪い心理が働く人間がいる。大人か子どもかを問わず、あらゆる人間を敵として認識しなくてはいけない日常を、達樹は生きてきた。
倉科は何も言わずに、過去の自分を語る達樹の声に耳を傾けた。
『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」A4
『永遠の花嫁』