『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」A7

『永遠の花嫁』

「義理っていうのが大きいし、十歳も離れてたから、そんなに親密ではなかったけど」
「理由は分かってるのか? そうなってしまった」
「いや、はっきりとは。遺書らしきものは何も残ってなかったからね」
「じゃあ、衝動的にってことか?」
 何かしら理由を見つけて納得しようとする倉科の態度に、達樹は首を横に振った。
「あいつ、親父のことだけど、あいつが殺したようなもんなんだよ。俺も同じだけど、兄貴に対してはもっとひどかった。ずっと、存在を否定され続けてきた。躾とか言って、毎日こっぴどく殴られる。お前はクズだ。死ぬべき存在だって」
「大人になるまで耐えたんだ。何とかして逃げ続けることはできなかったもんなのか?」
「先生、人間って、そううまくは作られてないよ。小さいときから恐怖を刷り込まれていれば、そこからうまく逃げることなんてできない。体が勝手に反応して、動かなくなる」
「そういうものか」
「口で話しただけでは、恐らく現実の十分の一も伝わらないと思う」
 達樹はそう前置きしつつ、続けた。毎日毎日、繰り返しそう言い聞かされていると、本当にそんな風に思えてくる。その思いを否定するために、兄貴は一人で戦い続けた。きちんと勉強して他人に認められて。
「でも、ダメだった」
「ある一定の目標をクリアしたとき、ふいに襲ってくるようになったって。自己否定の波が」
「それは、お兄さん本人が?」
「実は、それまでに二回の自殺未遂があって。どちらとも死なずに済んだけど、いよいよ三回目で、帰れなくなった。二度目の自殺未遂の後、少しだけ話ができた。その時兄貴が、お前は早くあの家を出て、自分を認めてくれる人間を探せって。笑ってそう言ったときの兄貴の顔が、今でも忘れられない」
 倉科は、達樹の顔を見て思った。そして、そのままを口にした。
「自分の命に代えてでも守りたいと思えるものが見つかれば、自分さえそう願えば、何としてでも生きてやろうっていう気になる」
 達樹はうつむいた。そして顔を上げた。その目には、光があった。
「兄貴が言ってた通り、この家からは出たいと思ってる。進路を、もっと真剣に考えてみる」
「そうだな、それがいい」
 窓を閉ざした部屋の中は空気が温められ、その熱の逃げ場所が失われたままだ。達樹が笑ったのを見届けてから、倉科は言った。
「窓、開けてもいいか?」
「どうぞ」
 達樹が立ち上がろうとするのを、倉科は手で制した。倉科の方が窓に近かった。窓の桟が歪んでいるらしい。想像していたよりも強い力が必要だった。ぎっぎっと軋みながら、ようやく窓が開放された。倉科は窓(かまち)に両手をつき、上半身を窓の外に突き出した。一陣の風が倉科の髪を()き上げた。
 窓の外に視線を投げると、家々の軒の連なりが見えた。視線のすぐ手前に一軒の家がある。風雨にさらされた壁が、色褪せてざらついた素肌をのぞかせている。縦の格子に擦りガラスを渡した玄関戸が、まるでむき出された動物の前歯のように見えた。

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