『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」A8

『永遠の花嫁』

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 三月十日、土曜日。倉科は都心のホテルの部屋のカーテンを開け放った。前日と同様に晴天に恵まれた街はどこかのんびりとして、時間が止まっているように見える。窓辺に立ってひとつ伸びをした。
 上京した昨日は、桜田と山脇に会って話をした。その後、公用を済ませた。今日は午前中、ある人物に会いに行く。全く話を聞けずに追い返される可能性も高い。様々に思いを巡らせては、取るべき行動の手順を繰り返し思い描いた。
 藤本メンタルクリニックでは、土曜日のカウンセリングは午前中に限られていた。
 椿がいた施設、花庵の職員の高橋から聞き出した病院の所在地は三鷹だ。椿が十六歳から十八歳までを過ごした八王子の花庵からは中央本線一本で行ける。倉科は品川から東海道本線を使って東京駅に出た。コインロッカーを探し、スーツが入ったバッグを押し込んだ。中央本線のホームに移り、高尾行きの特別快速に乗る。二本の鉄道に揺られた乗車時間は四十分に満たない。三鷹駅で降りた後、駅前からはタクシーを拾った。道に迷うよりも、確実に目的地に着きたかった。
 病院に着いたときには、十時を十分ほど回っていた。開院が十時で予約が十時半。申し分のないタイミングで到着することができた。
 受付に保険証を提示した後、初診だということで問診票を書かされた。予約を入れた際には、不眠症と伝えていた。不眠症を裏付けるにはどのような記述が必要なのかを調べていなかったから、ほとんどの項目を空欄にしたまま提出した。問診票の住所が弘前であることに気づかれれば、倉科が本来的な意味での患者ではなく、何か訳があって病院を訪れたことが分かるはずだ。その時に事情を話すことになるのだから、わざわざ紙に書いて自分の嘘を可視化する必要はない。それに、この面会にはゲストが加わることになるだろう。今朝、ホテルのロビーを出たところから、倉科はそのことに気がついていた。
 時間通りに名前が呼ばれた。看護師に従って診察室に入ると、机に向かっていた医師がスツールを回して倉科の方に身体を向けた。白衣姿を想像していたが、生成りのコットンシャツにジーンズというラフな装いだ。シャツの胸には藤本と書かれた名札があった。
「倉科さんですね?」
「はい」
 眼鏡の奥から放たれる藤本の視線が、真っ直ぐに倉科の目を射る。
 目尻に刻まれた幾筋もの皺が、深い。髪は真っ白だ。経験と、それに裏づけられた威厳が男の身を包んでいる。その割に肌に艶があるものだから、皺や白髪が与える印象よりも若いのかもしれない。倉科はこの男が六十を少し手前にしたところと踏んでみる。
「どんなご用件でしょうか?」
 藤本の手元には、倉科が書いた問診票はなかった。

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