一月を春とする古の暦は、肌で感じられる季節とのずれをともなう。しかし三月ともなると、ようやく春らしい陽光が体を温める。三月九日、金曜日。東京は突き抜けるような晴天に恵まれた。風にはどこかしら春が薫った。
ゆっくり歩いても三分ほどだろうか。駅からは目的のホテルがすぐ目の前に見える。
自動ドアを抜けてロビーを進むと、左手にカフェがある。その空間の一画に、見覚えのある背中を見止めた。桜田はこつこつと踵を鳴らしながらその背中に歩み寄った。
「倉科先生」
椅子の横に立ち、桜田はその名を呼んだ。倉科の真正面にある椅子を引き、腰を下ろした。その後に続くように、山脇が桜田の隣に座った。
「桜田さん。座ったばかりのところ申し訳ないのですが、場所を変えさせてもらえませんか?」
倉科が少しだけ困ったような顔をして見せる。桜田はほんの小さく首をかしげた。その仕草の中に、どうしてという問いを込めた。
「会合までは二時間ほどありますが、ここだとあまりに会の出席者に見られて、落ち着いて話せないので」
「そうですか。もちろん、かまいませんよ」
「では、このホテルのすぐ隣にある喫茶店に行きましょう。ついさっき、いい場所はないかと探しておいたんです」
倉科は椅子を立って先に歩き出した。倉科が使っていたカップに少しだけ残ったコーヒーが、ゆらゆらと揺れた。
「久しぶりの東京ですが、この街の空をこんなに青く感じたことはありません」
倉科の言葉通り、喫茶店はホテルのすぐ隣にあった。建物全体を覆う赤レンガはよく焼きしめられている。触れれば人肌の熱を返してくれるのではないかとさえ思えるような色合いだ。倉科がドアを押し開き、桜田と山脇がその後に従った。落ち着いた雰囲気の店内を見回した桜田には、倉科によってこの場所が選択された事実が至極当然のことのように思えた。テーブルも椅子も床も、すべてが木製だ。深い飴色の中に、僅かな光が閉じ込められている。確かに、ゆっくりと話ができそうだ。しかし、時間には制約がある。桜田は三人が席に着き、皆がコーヒーを注文し終えるとすぐに話を始めた。
「一戸達樹について伺わせてください」桜田はバッグからノートを取り出した。「一戸が卒業後に上京したのはどうしてですか?」
「単に進学のためです。本人の希望で上京することになりました」
一戸は東京都内の大学に進学し、その後新聞社に就職した。その間、住所は変わっていない。
「一戸達樹の両親はH町に残っていますよね? 達樹が両親から、特に父親から、離れて生活したいと考えている様子はありましたか?」
「ありました。そのことは、本人の口から明確に話されました」
「そうですか。一戸の高校卒業後は、彼とどんな話をされました?」
「東京の水そのものはとても合っていたようで、大学在学中も就職した後も、それなりに充実した生活を送っていたようでした」
「そうですか。先生はご存じないんですか? 一戸達樹の出生については」
「特に何も」
「一戸達樹が棄児、捨て子だったということは?」
倉科の目が大きく見開かれた。そしてそのまま時が止まってしまったかのように、しばらくの間微動だにしなかった。
「いやぁ、知りませんでした」
ようやくそう言った倉科は、それでもまばたきを忘れたままだ。
『永遠の花嫁』第三章「八朔の雪」B1
『永遠の花嫁』