『永遠の花嫁』第四章「牡丹雪」A2

『永遠の花嫁』

 数カ月後には、真理亜は六本木にあるタヌキ名義のマンションを預かり、椿と二人で住むことになった。近い将来には、マンションを自分の名義に書き換えさせることが可能だと思えた。また、経済的に安定した生活と、将来を保証することができるだけの教育を娘に与えることもできると踏んでいた。
 しかし、真理亜が立てたプランには大きな誤算があった。それが真理亜自身に向けられることがなかったために、長い間気づくことができずにいた。その誤算のために何年もの間地獄のような苦しみを味わったのは、真理亜ではなく椿だった。
 ゴリラ。
 その性格、特に女に対するどん欲さと残忍さにかけては、真理亜がよく知っていたはずの男たちの中にも例がなかった。そのことに、真理亜は気づくことができなかった。
 父親とその愛人がどこのホテルにしけこんでいるのかを把握できる立場にあったゴリラは、マンションにいつ椿が一人でいるのかをよく知っていた。椿を相手に自らの欲望を満たす機会を、虎視眈々と狙っていた。
「六月、町中の音という音をすべて包み込むように降りしきる雨の夜、私の心と体をゴリラが壊し始めた。そう彼女は言いました」
 藤本の、何とも言えず哀しそうな、辛そうな、眉間に皺を寄せたその表情が、倉科の記憶に深く刻み込まれた。
「川村椿さんの話を聞きながら、その光景を想起するのが辛かったことを覚えています」大人びているとはいえまだ幼い体に、暴力的な性を強要され続けた。そのことを思うと、今でも怒りで体が震える。それをまともな精神状態で乗り越えることなど出来なくて当然だ。彼女が解離性同一性障害や解離性健忘などの症状を発症しようが、誰も非難することなど出来ないはずだ。彼女の中に起きたそれらの変化だけが、ほんの少しでも彼女の心を楽にするものだったのだから。
 藤本はそう言って、笑うように弱々しく顔を歪めた。
 倉科は知っている。
 桜田本人こそ、解離性同一性障害によって自らを問題の外に逃がした経験をもっている。桜田を辛い過去から救い出そうとした八鍬をはじめとした医療チームは、桜田本人が発揮したその力を利用し、便乗した。だからこそ、これ以上藤本の話を桜田に聞かせたくはなかった。万が一にでも桜田のなかに真の記憶が沸き上がろうものなら、桜田がどんなふうに壊れてしまうか分からない。
「椿さんの経験は、聞くに堪えないものでした」
 ゴリラは真理亜の留守中、椿が一人のときを見計らい、あらかじめ作っておいた合鍵を使ってマンションに入り込んだ。そのとき洗面所にいた椿が物音に気がついて玄関に向かうと、そこにゴリラが立っていた。ゴリラとはそれ以前に一度だけ顔を合わせたことがあったと、椿は話していた。一度しか会ったことがない男が、自分が無防備になれるはずの空間に立っている。椿はその状況をうまく飲み込むことができず、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。ゴリラはずかずかと部屋に上がり込み、何も言わずに椿に歩み寄ると、唖然としている彼女の腹部に拳を入れた。鳩尾(みぞおち)に激しい衝撃を受け、椿は呼吸ができなくなった。あまりの衝撃に思考が飛んでしまった。
 倉科の脳裏に、腹部をおさえて床にうずくまる椿の姿が映し出された。あの大きな瞳に涙を浮かべ、痛みに歪められた顔が床に貼りついている、そんな光景を想像してみる。

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