「いや、今日はもう帰った方がいい。またあらためて話を聞きに来よう」
倉科の声に、桜田が薄く眼を開いた。桜田は倉科に視線を流すと、小さくも確かな声でこの場を継続させる希望を口にした。
「だめ。最後まで話を聞かせて。本当に大丈夫」
「こういうことは時々?」
藤本のその問いに対する桜田の答えに、倉科は意識を集中した。桜田が危険な状態に陥る可能性が浅い所にあるのか、それとも深いところにあるのか。倉科にはその尺度を知っておく必要があった。
「時々。でも、大丈夫です。いつもすぐに良くなりますから」
意を決したように床に手をつき、桜田は体を起こした。倉科は彼女の肩にそっと手を添えた。三人とも、もとのようにそれぞれの椅子に座り直した。桜田の様子に、倉科はそろそろ核心に触れる必要を感じた。
「川村椿が青森で過ごした期間は本当にわずかでした。しかし、一度だけ家庭訪問をしたことがあります」
頭痛に顔を歪めながらも、桜田が身を乗り出した。会話に加わる余力がなくても、倉科と藤本の会話を一言も聞き漏らすまいとする意識が見えた。
「母親、真理亜はいませんでした。椿一人が部屋にいて、母親の帰りを待っていました」
「結果的に川村椿と二人で話をすることになったわけですね」
「はい。問題が起こりやすい環境を自分で作ってしまったことを後悔しています」
「何があったんですか?」
「ただ当たり前の会話をして帰るつもりでした。でも、椿の行動に、しだいに性的なニュアンスが現われはじめました」
「それは、どんな?」
今度は藤本が身を乗り出した。
思い出したくはない出来事だった。倉科は一瞬顔を曇らせるのを止めることができなかった。桜田の目が、そんな倉科の様子を見逃さなかった。
「身体をすり寄せてきました。座っている私の太腿に触れ、膝の上に乗り、首筋に繰り返し口づけを受けました」
「性化行動、ですね」
藤本の言葉に、倉科は頷いた。
「はい。そう思います」
「それ以上には?」
「何も。拒否されたと思われたのかもしれません。私が椿から身を退いた後、罵声を浴びせられました。その声が椿のものだとはとても思えなくて」
「当時、川村椿は十六歳ですね。当然ありうる反動だと思います」
藤本が言った。
「結局、私は逃げ出すように椿の部屋を後にしましたが、当初は困惑しました。深く知りもしない私に対して、椿が本当の意味での好意を抱くはずなどありません」
「そうでしょうね」
「性的に成熟しているとも言えない椿が、そんな行動に出る理由が全く分かりませんでした」
「それを、自分なりに調べたんですね?」
頭痛をうったえた桜田への関心を経て、藤本が再び医師の顔を取り戻している。
「はい。そして性化行動という言葉に行きつきました。先ほど、藤本先生の口からこの言葉を聞くことができて、何だかほっとしました。長いこと答えが欲しかったので」
『永遠の花嫁』第四章「牡丹雪」A4
『永遠の花嫁』