『永遠の花嫁』第四章「牡丹雪」A5

『永遠の花嫁』

「このように書きます。先ほど桜田さんにお話ししたように、圧倒的な力に支配され、逃げることができない状況に置かれた子どもに何が出来るか」
 藤本の問いに、今度は桜田が答えた。
「大人との苦痛をともなう関係から逃げることのできる唯一の方法は、心理的な逃避です」
 藤本の口調がゆっくりと、言葉を噛み砕くような調子に変わる。倉科と桜田は藤本の言葉に傾注した。
 性的虐待を受けた子どもは、その秘密を心の中にもったまま、虐待が生じる環境に順応していく。自分に接する大人の要求に応えて、関係を楽なものにしてしまおうとする傾向をもつようになる。しかし思春期をむかえるころ、子どもの様子は劇的に変化する。その多くが、家出や万引きやシンナー吸引などの逸脱行動であり、それが性的な方向に働いた場合が性化行動となる。
「では、川村椿は倉科先生が家庭訪問したとき、先生との関係を面倒なものにしたくないばかりに性的な行動をとったということですか?」
「おそらく無意識下の行動でしょうが、潜在的にそのような思いがあった可能性は非常に高いと思います」
 まだ十代の半ばを過ぎたばかりの少女が、自分の居場所を得るために男に媚を売る。不快感が倉科の胸をチリチリと焼く。
「椿を苦しめたゴリラに関して何か」桜田の声は心なしか震えていた。「名前など、具体的なことは?」
「何も。椿さんからは、自分の心のケアは望んでいても、相手をどうにかしてやろうという言葉は出てきませんでした」
 理由として、相手が圧倒的な優位に立っていたことが考えられる。繰り返される暴力そのものによって、椿を継続的に、空間を隔てながらも支配下に置き続けることはできる。もしくはそう思い込ませることも。相手の暴力が及ばない場所にいてすら支配下に置かれ続けているような状況を、椿は相手に作られてしまった。
 力。
 倉科は自分の体の中に、冷たい風が吹き抜ける空洞の存在を覚えた。風は倉科の体を凍えさせはしなかった。むしろ倉科の中に眠る小さな火種に風が吹き付けられたことで、赤々と燃え盛る炎が立ち上がるのを感じた。
「当時の衆議院議員の中で、長男が都議をしていた例を探すのは、それほど難しくはないはずです。記録はいくらでも残っているはずですから」
 倉科には、桜田に次の捜査の方向性を話すことが有益だと思えた。
 そのとき、桜田がびくりと体を弾かせた。反射的にジャケットの左胸を抑えている。マナーモードに設定していた携帯が、ジャケットの内ポケットで震えたのだ。桜田は携帯電話を取り出して開いた。
「同僚からです」
 倉科は、テーブルの上にメモ用紙を置いた。胸のポケットに差していたボールペンを取り出し、あえて藤本の目が届くところで、通話中の彼女に見せるためのメモを書いた。
『二〇〇二から二〇〇三年に父親が衆議院議員、息子が都議の事例』
 桜田は身をかがめてテーブルの上のメモを見た。一通り読み終え、倉科と藤本の二人に頷いて見せた。
「それからもうひとつ、調べて欲しいことがあるの」
 携帯電話の向こうにいる山脇にそう切り出した桜田の表情は、いつの間にか明るさを取り戻していた。

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