『永遠の花嫁』第四章「牡丹雪」A9

『永遠の花嫁』

            ◆
 長い、長い二日間だった。
 東京駅を発った二人が弘前駅に到着したのは、三月十日土曜日、二十二時半だった。改札を抜けて駅舎を出た。隣に桜田が並んで歩いているという現実が、どこか架空の出来事のように思える。
 月が出ていた。新月を二、三日は過ぎているだろうか。細い、糸のような月だ。
「倉科先生、私はここで」
 桜田がふと立ち止った。その声にジャケットの裾を優しく引き留められたように、倉科も立ち止った。そして振り返った。桜田の顔の下半分だけが街灯に照らし出されている。そこに影は見えない。倉科は自分の足元を見た。自分の体もまた、隣り合う街灯の下にあった。二人は影さえも交わることはない。あるいは、交わらせてはいけない。
 そこは駅前通りに新しく築かれた、遊歩道の入り口だった。遊歩道を折れた先に、数件のビジネスホテルが並んでいる。列車の中で桜田が携帯電話を使って予約を入れたホテルも、この歩道沿いにあるのだろう。
「それでは」
 踵を返そうとした瞬間、倉科は視界の隅に桜田の唇が動きかけている様子を捉えた。
「倉科先生。また、何らかの形でお時間をいただくことになると思います」
「容疑者としてでなければ、いつでも」
 桜田は無防備な笑顔になった。仕事を含んだ造られた笑顔との違いに、倉科は素直に驚いた。
「容疑者だなんてとんでもない。あくまでも私の中では重要参考人ですけど」
 桜田はそう言って、また笑顔の花を咲かせた。その笑顔に倉科も微笑んで応じると、今度こそ踵を返した。何を目にしても耳にしても、もう振り返らないことを決めていた。桜田の気配が遠ざかり、やがてふつりと途絶えた。
 夜の澄んだ空気が肺に満ち溢れ、体を軽くしてくれる。自分が何か目に見えないものから解放されていくのを感じる。ふと、倉科の脳裏に環の顔が浮かび上がる。明日、家に帰ったら、この日のことを話そう。これから先、何が起こるのかは分からない。しかし、話さなければならない出来事はすでにいくつも生じている。桜田の言葉を借りれば、捜査上、自分に割り当てられた役割はない。それならば話してもかまわないはずだ。花庵での出来事と藤本医師との会話。そして、その先にある椿の存在についても触れなければならない。
 環は黙って話を聞いてくれるだろう。そして全部話し終わったら、いつものように温かく優しい手で、この肌に触れてくれるかもしれない。自分はその手を引きよせて、腕の中に環を抱くのだろう。衣服を通して伝えられるものでありながら、環の体温は倉科の体に静かに滲みわたって来る。そして、殊更に飾り立てなくても、環の匂いはいつでも倉科を柔らかく包み込んでくれる。環に十分に温められたら、階段を上って子どもたちの寝室のドアを開ける。そこには小さいけれども大きな安らぎが二つ、静かな寝息をたてて眠っているはずだ。二人の髪を撫で、手の平で頬を包み、体温を感じたい。倉科の体に刻み込まれた子どもたちの感触が、今まさに胸の中に再生されようとしている。倉科は、三つの命に支えられている自分を感じた。
 自分が自分だけのものだったころは、生死すらも自分で決められると思っていた。それで誰も悲しみもしなければ困ることもない、そう思ってきた。しかし今は、自分の心と体は自分だけのものではなくなった。環と茜と陸が支えてくれている。その支えがあってこそ、自分は消えずに生かされることになる。倉科は自分の足がアスファルトを踏む感触の確かさを味わった。
 川村椿にも、倉科にとっての環や茜や陸や、誰か一人でも家族がいればよかったのだ。真理亜が一方的に姿を消してしまったことをはじめとして、事実はそう簡単にはいかなかったことは分かっている。足し算や引き算のように、人間の関係性の中に単純な計算が成り立つわけではない。しかしこうも静謐な夜気に包まれていると、もつれ合う感情の糸が自然にほぐれ、物事がもっと単純に整理できるもののように思えてしまう。
 真理亜は、一体どこに姿を消してしまったのか。七年前に直面した謎の答えは、今も見つけられないままだ。
 そして川村椿もまた、達樹の助力によってどこかに身を隠した。

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