二人静1

小説

 夏椿なつつばきの白く小さな花がぽろぽろとこぼれ落ちるのを見ていると、急ぎの要件があるからと女将に声をかけられた。
 はいと返事をし、たちばな清美きよみは箒で庭先を掃く手を止めた。下駄をからからと鳴らして玄関に入り、かまちに上がった。そこに女将が待っていた。清美の姿を認めると彼女は先に立って廊下を進み、「椿」の間に入っていった。清美はその背中に従った。廊下の前で膝を折り、指をついた。この宿では従業員同士の会話に客室を使うことなどあってはならないとされている。清美は静かに意を決した。
「本当に仲の良い夫婦だったのよ」
 女将はそう切り出した。
 女将、桂木かつらぎ恵子けいこには清美の両親に関する鮮明な思い出があるという。東京で会社勤めをしていた父、橘敏行としゆきが三日間もの休暇を取り、母、知子ともこと二人でこの鉄輪かんなわ温泉を訪れた際のものだ。
孝志たかし兄さんは別にして、四姉妹のなかで一番下の知子さんだけがお勤め人のところに嫁いだものだからどうなることかと思ったけれど、あの様子を見てたらすっかり安心しちゃってね。敏行さんはとても優しい人だった」
 あまりにも唐突な交通事故によって、両親はすでに他界していた。なぜ今になってと、清美は恵子の真意をはかりかねた。
 恵子の様子がいつもと違っていることは火を見るよりも明らかだ。柔和な笑顔を絶やさない彼女が、時折顔を曇らせる。普段は率直なのに、相手を思い遣りすぎる気質がこんなときには歯がゆい。
 何か深刻なことが起こったのは分かる。しかし、その内容には見当もつかない。
「それで女将さん、お話っていうのは?」
 清美の言葉に促され、恵子がつと顔を上げた。目尻に深く刻まれた笑い皺が、ふつりと消えた。
「ついさっき浅草あさくさから電話があってね。明子あきこちゃんが亡くなったって」
 街中いたる所から立ち上る湯煙が視界に入るのは季節を問わない。夏の盛りの今、うるさいほどに降り注ぐ蝉時雨もまた、こちらの都合を考えてはくれない。それらがぴたりと止んだ。清美の目には一切の光、耳にはすべての音が届かなくなった。
「今、何て?」
「急性白血病だったって。二週間前に入院して、それきりって」
 両親の死後、姉の明子は浅草に、清美は一旦修善寺しゅぜんじに預けられた。その後十六になって、清美は鉄輪に移っている。また会えると思っていた。いつか許されて。その日はもう来ない。

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