二人静10

小説

 清美は麗ににじり寄りながら、その小さな体をそっと引き寄せるために足を横に投げ出した。そして手を差し伸べた。麗は何も言わない。ただはなをすすりあげながら、導かれるままに清美の胸に体を寄り添わせた。その体を持ち上げて膝の上に載せた。背中に腕を回し、抱きかかえた。清美の胸に耳を押しつけるように抱かれた麗の体は、温かく湿っている。その熱が伝わって、清美の体をも温める。
 すっと麗の匂いが立ち上がり、清美の鼻腔をくすぐった。幼いころの自分自身、あるいはじゃれ合って遊んだ姉の匂い。嗅ぎ慣れてはいないはずのそれがどこか懐かしい。清美は麗の体を自分の胸のなかに掻き抱きながら、その頭にそっと鼻をあててみる。いい匂いだと、そう思う。
 清美は知らず知らずのうちに目を閉じていた。そして、体を前後に揺らしてしまう。
 すっと、麗の体が重くなったような気がした。麗は熱のためか、清美は飲みなれない酒のせいか、いつの間にか二人とも眠りに落ちようとしていた。
 右肩をとんとんと叩かれ、目を開いた。恵三が清美から離れていくところだった。
「ごめんなさい」
 清美は麗のためにしなければならないはずのことをさし置いて、眠ってしまいそうになっていた自分を詫びた。
「食べさせないと」
 体を元の位置に戻しながら、恵三が囁いた。清美は頷きながら、顎を引いて自分の胸元にある麗の顔を覗き込んだ。力なく口を開けた顔がそこにあった。
「麗ちゃん、起きて」
 麗の体を縦に揺らすと、唇をぐにゅぐにゅと動かしながら麗が目を覚ました。汗で湿っていた麗のパジャマが、いつの間にか冷たくなっている。清美は顔を上げた。なぜか、目の前に呆れ顔で小さく笑う恵三の顔があった。
「まずは着替えさせた方が。このままだと汗が冷えて」
 恵三は笑みを絶やし、何も言わずに立ち上がった。子ども用の箪笥の引き出しをを開けた。そこから下着とパジャマを出した。
 清美は麗の体を引き上げて立たせた。甘えさせるよりも手際を優先した。脱がせた下着とパジャマを新しいものに替え、もう一度膝の上に載せた。夏とはいえ夜だ。十分に暖かいが小さな体を冷やさないよう、手繰り寄せたタオルケットを腰から下に掛けた。
「じゃあ、いいかな」
 ようやく準備ができたところを見計らい、恵三は土鍋の粥を匙ですくった。それをそっと自分の唇に触れさせ、熱さを測った。
「はい、あーん」
 いかつい顔つき、がっしりとした体格の男から出るものとしてはちょっとばかり間の抜けた声が、清美をその場に馴染ませた。
 麗は清美に体を預けたまま、口に受けた粥を数回噛み締めては呑み込んだ。それを繰り返すうち、茶碗一杯分を平らげた。その様子を見て、満足そうに恵三が微笑んだ。
「よし、じゃあ、次は歯磨き」
 恵三は立ち上がり、部屋を出ていった。おそらく洗面所に入ったのだろう。何かがぶつかり合う軽い音、水が流れる短い音が伝わってくる。
 恵三の姿が見えない間、麗が頭をくるりと回して自分の体を抱く清美の顔を見上げた。目が合うとすぐに元の位置に頭を戻した。そして思い出したように清美の膝を降りると、敷布団の上に仰向けになった。左右の手が胸の上に組まれた。
「おっ、偉いなあ」
 恵三は部屋に戻って来るなりそう言って、麗の頭の位置に両足を広げて座った。手には歯磨き粉をつけた歯ブラシを持っている。恵三が麗の顔の上に両手を挙げると、麗が口をぱかりと開けた。恵三は麗の歯を磨き始めた。小さな口のなかに歯ブラシが出たり入ったりしている光景を、清美はとても面白く思った。
「さあ、ぶくぶくしに行こう」
 麗は口を閉じた。頬っぺたをふくらませている。恵三は立ち上がり、麗の体を軽々と抱き上げた。恵三の肩の上に顎を乗せた麗がこちらを向いている。目を伏せているために、視線までが清美に届いているわけではない。しかし顔全体が照れたように笑っている。
 二人がこの部屋を去り、一人で薄暗がりの下に残された。その途端に、清美には自分がこの場所にいる意味が見えなくなる。

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