二人静11

小説

 常夜灯の明かりが部屋を橙色だいだいいろに染めていた。その薄暗がりに、座ったままの自分の体が溶け入ってしまいそうに思える。清美は手の平を広げてみる。そこに本当にそれがあるのか、確信がもてない。手の平の形を結んでいた像が、少しずつ少しずつ輪郭を失っていくように思える。
 小一時間ほど前に初めて会った男と、その幼い娘。
 二人が目の前から姿を消しただけで、清美は何者でもない自分になっていた。このまま薄闇に溶け入ってしまったとしても、自分が存在したことなど誰も思い出してはくれないだろう。それまでに何度も味わってきた感覚を、この時ほど濃く重く感じたことはない。得体の知れない不安は痛みとなり、再び清美の胸を絞めつけた。
 水道の水が流れる音。口に含んだ水を吐き出す音。コップを置く音。低く交わされる声。そして、近づいて来る一人分の足音。
 恵三が、居間から差し込む一段明るい光を背に部屋に戻って来た。胸のなかに抱いた麗の体を布団の上に横たえた。清美はその上にそっとタオルケットを掛けた。
 麗の小さな体が真っ直ぐに横たわっている。緊張しているのか、瞼の結び方が固い。
 私がここにいることで何かが変わってしまっている。
 清美は恐る恐る麗の頬に手を伸ばした。そのあまりにもすべすべと柔らかな感触にたじろいだ。ちょっと力を加えればいくらでも、いかようにも形を変えてしまいそうな危うさが、手の平を通じて駆け上がってくる。
 私は、何か恐ろしいことをしようとしているのではないだろうか。
 清美は麗の頬にあてた手を、そっと引き戻そうとした。その刹那、タオルケットの下から伸びた麗の手が、自分の頬を包む清美の手に触れた。小さな小さなその手が、清美の手の甲にそえられる。清美は引き戻そうとしていた手で、麗の手をそっと捉えた。さらに、もう一方の手を使って包み込んだ。柔らかく、そして温かい。
 ほんの短い時間、麗は清美の手に自分の手を預けてくれていた。しかしふと引き抜くと、タオルケットを引き上げて顔を覆った。そして、布団を挟んで清美と向かい合う恵三の方にくるりと体を回した。その体が小刻みに震え、くぐもった嗚咽が聞こえはじめた。
 清美は恵三の顔を見た。どうしたものか分からない。歪められた彼の表情には、そんな意味が込められているように思えた。
 私は、間違えたのだ。麗を守り、恵三を助け、姉を安心させる方法を。そして、自分の活かし方を。
 やってはいけないことをしてしまった。何の権利があって、父子おやこ二人の静かな生活を壊そうとするのか。母親を失った幼い娘と妻を亡くした父親とが一年かけてようやく築き上げた静かな日常を、身勝手に入り込んできた女が壊していいはずがない。
 清美は立ち上がった。
 決して急いではいけない。間違えてちょっとだけ深入りしすぎてしまったお節介な女が、自分の時間を思い出したためにその場を立ち去る。そんな風に見せる必要があった。これ以上、二人を惑わせるわけにはいかなかった。
 薄暗がりを抜け、居間の光のなかに出た。階段を降り、厨房を抜け、カウンターを過ぎた。ついさっきまで自分が座っていたはずの椅子が斜めに引き据えられている。隣の椅子に置いていたバッグを開き、財布のなかから一万円札を出してカウンターの上に置いた。バッグを手に、引き戸を開いた。静かに、静かに、親子の邪魔をしないように。ふと見上げると、壁の時計が午前一時を指していた。

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