いつも通りの時間に部屋を出た。エレベーターで一階に下り、フロントにルームキーを預けた。これからどうすればいいのか、もうそろそろ身の振り方を考えなければならない。清美はゆっくりと、ホテルの出入り口へと向かった。
不意に、誰かが清美の手首を掴んだ。清美は驚きのあまり息をのんだまま、声を上げることができなかった。反射的に振り返った目に、小さな女の子の姿が映った。その顔には怒りが宿っていた。
清美の腕を掴んだ大きな手の先に視線を転じると、そこには恵三がいた。
状況がのみ込めると、清美は麗に視線を戻した。恵三から麗に視線を移し終えるまでのほんのわずかの間に、小さな瞳には涙が溢れていた。涙は流れては落ち、なおも流れては落ち続けた。ロビーの絨毯を叩く、ぽたぽたという音が聞こえるかと思えるほど激しく。
麗は動かない。唇を引き結んだまま、真っ直ぐに立っている。ただ瞬きをする瞼の動きだけが、彼女が生きていることを証しているように思えた。上下の瞼を合わせるたびに、一段と太い涙の道ができた。
清美は恵三の手を振りほどいた。もともとそれほど強く握られていたわけではない。清美の体の動きを感じ取ったのか、恵三の方が先に手を放してくれていたのかもしれない。
清美は麗のもとに走った。
この子に涙を流させているのは、私だ。それならば、この子の涙を止めることができるのもまた、私でしかない。
清美は麗の前に膝をついた。目の高さが同じになってようやく、その表情が怒りではなく困惑であることを知った。この子を困らせてしまった。悲しみを思い出させてしまった。それがすべて自分のなかの弱さから生まれた結果だということを思い知らされた。
清美は麗の小さな体を抱き締めた。その細い、細い両腕が、清美の首に巻きつけられた。髪を一つに束ねたことで露になった首筋に、涙で濡れた麗の頬が押しあてられた。それは、柔らかくも冷たかった。
麗の小さな体を抱き締めながら清美が見ていたのは、過去の自分の姿だった。
清美には、三人の母がいた。
生みの母、知子は、清美の体を愛しむように抱いてくれた。母に抱かれるたびに清美を満たしていたものは、胸の奥が温まるような安らぎだったように思う。明子はその感触を覚えていると言っていた。清美にはその思い出がない。それでも、幼い清美と明子を挟んで両親と四人で映した写真を見るにつけ、喜ばれて生まれてきたのだと確信することができた。
修善寺の幸子は、明子と離れて暮らす清美をかわいそうだと言いながらも、人に接しても恥ずかしくないようにと礼儀を厳しく教えてくれた。あのときも、あなたは人の命を救おうとした自分の行為を恥じなくていいと、清美を庇い、励まし続けてくれた。
斎藤の使用者として、彼に対する処遇が甘かった。酒を飲ませることそのものをやめさせなければならなかった。幸子自身が罪の意識に苛まれ続けていた事実は、その言動に滲み出ていた。その痛みを共有するように、何度も何度も清美を抱きしめていた。それは清美に関してはもちろんのこと、幸子にとっての救いにもなっていたのかもしれない。いよいよ修善寺に身を置くことがはばかられるようになり、その土地を去ろうとするときにも、あなたは私の娘だと言ってくれた。
鉄輪の恵子は、いつでも真っ直ぐに清美を見てくれた。清美の言葉に耳を傾け、ひたすらに受け入れ続けてくれた。
血を分け合った女たちが、精一杯に清美を育ててくれた。
今、清美が抱き締めているこの子には、清美を育ててくれた三人の女たちのような存在が一人もいない。