秋と冬を越え、春を過ぎて再び初夏を迎えた。
この季節、客室に活けるための山野草には事欠かない。まだ小鳥たちのさえずりさえ響かない早朝、女将と連れ立って裏手の山林に浅く分け入ることが日課になっている。
ふと、足元の可憐な白い花に目が留まった。その花を見下ろしたまま佇む清美に、恵子が声をかけた。
「二人静ね」
十字状についた四枚の葉の中心から、二本の花穂が寄り添うように伸びている。花穂のそれぞれに、粟粒ほどの白く小さな花が十数輪ずつ並んでいる。
これまでに何度か目にしているはずなのに、この日に限ってなぜか目が離せない。
「いただいていきましょう」
女将の言葉に一度はしゃがみ込んだのだが、どうしてもその茎に鋏の刃を立てることができなかった。清美のその背中に、女将の声が注がれた。
「花穂は二本が普通なんだけど、時々三本のものも。可愛らしい花よね」
清美は摘んだ花を入れるための籠を手に立ち上がった。
急にはらはらと雨が降り出した。
二人で山を下りた。清美の籠には一輪の花も、一枚の葉さえ入れられてはいなかった。
いつものように宿泊客を玄関先で見送る時刻になると、雨は上がった。
玄関から門へと至る道の両側に、松が枝を張り出している。それがちょうどアーチ状に結ばれた先に、一羽の雀がとまった。そのささやかな重さに枝先がわずかにしなった。しばらくして雀が飛び立つと、枝が元に戻ろうと跳ね上がった。松の針にとどまった雨滴がぽたぽたと落ち、道に小さく丸い水の跡を作った。それを見た瞬間、清美の目から涙が溢れた。あれ、落ちた雨粒が降りかかったのかなと、そう思った。しかし、それは温かかった。
宿泊客を見送るために隣でまだ腰を折っている、女将が体を起こすのを待って切り出した。
「女将さん。お暇をいただけないでしょうか?」
恵子が清美の顔を見詰めた。涙の筋が頬に残っていたのだろう。清美を見上げた視線が、そこにとどまっている。
これまで何を話してきたのでもない。この一年間、姉の死を受けて清美が何を考えてきたのかも。それでも、恵子はすべてを知っているかのように深く頷いた。
「決めたのね?」
「はい」
「もう、一年になるものね。確か、麗ちゃんていったかしら?」
清美は頷いた。
「きっとその子には、清美が必要なのね」
清ちゃんと呼ばれることに慣れていた。名前を呼び捨てられたことの意味を考えた。
「恵子伯母さん」
伯母を目の前にして、清美は初めて鉄輪にやって来た日のことを思い出した。
罪を背負って流れてきた清美を、恵子は何も言わずにぎゅっと抱き締めてくれた。忌み嫌う素振りなど少しも感じさせずに。その温かさが、今でも忘れられない。
「さみしくなるわね」
清美は深々と頭を下げた。