鉄輪を去るにあたり、やらなければならないことが次々と頭に浮かんだ。そのうちのひとつが、浅草の祖父に高梨麗の様子を見に行ってくれるよう依頼することだ。
祖父はこの頃になってようやく、浅草の旅館の経営を長男の孝志に譲ったばかりだ。七十を目前に隠居したものの、その心身は年齢不相応に若々しい。車を運転してひょいひょいと出掛けては、その日その日をうまく楽しんでいるようだった。戦中戦後の気が遠くなるような混乱のなかを生き抜いた男には、何事にも動じない強さと何物をも呑み込む優しさがある。彼は清美の依頼を快諾してくれただけでなく、役割が与えられたことを喜んだ。
三歳になったばかりだそうだ。祖父はそう切り出した。俺には年の割に少し小さく見えたけれど、にこにこして可愛らしい子だった。店の手伝いに来ている若い女の子もきちんと面倒を見てくれているようで、麗もなついている様子だった。そう言う。
祖父は幼い女の子よりもその父親に興味があるのだろう。清美が聞きたいと思っていた麗の様子については早々に話を終え、その父親についての話題に切り替えた。祖父のもとで旅館の厨房の一翼を任せていた男なのだからそれもしょうがない。麗の幸せを思えばなおのこと、その保護者としての男の様子が気になるところでもある。
高梨恵三に会うのも久しぶりだったが、相変わらずの無口だったね。ああ不愛想だったら客なんか寄りつきゃしなさそうだが、料理人としちゃあやっぱり一流だ。その味に胃袋を掴まれたんじゃあ、おいそれとは離れられないってもんだろうよ。そう話す祖父の声は明るかった。
生粋の江戸っ子である祖父の言葉は、さっぱりとしている半面、どこか人を突き放したような冷たさを感じさせることがある。しかし、外連味がないので清美にはかえって心地がいい。恵三がそんな祖父の元を離れて自分の店を持ちたいと願うようになったのは、清美の姉、明子がそう望んだからだ。
浅草の女将の下で若女将として働いていた明子の様子は、風の便りに耳にしていた。
明ちゃんは何につけ頭と手際の切れを求められる女将業にうってつけの器量をもっている。そのくせとぼけたようにその切れ味を隠すものだから、嫌味がない。そんな仕事ぶりを女将が認めているし、ゆくゆくはとの思いが誰の心にもあるようだ。しかし、明ちゃんはそんな環境から独立することを望んでいる。その理由を特に口にしないけれど、長男の孝志さんと奥さんのことがあるんじゃないかって。
清美が明子の妹だということは周知の事実だ。明子を肯定的に扱う話を清美が好むことを皆が知っている。
歳の差こそあれお互いに誰からも認められる腕と器量をもった恵三と明子が惹かれ合うことは、周囲の目からすればごく自然な成り行きだったのだろう。そのために祝福された。二人は資金を貯め、時間を見つけては不動産屋をあたって物件を探し、着々と独立の準備を進めていった。
「姉と恵三さんが独立したのはいつでしたか?」
受話器の向こうで、祖父が少しだけ考えているのが分かる。
「つい最近だよ。四年前だな。恵三が二十九、明子が二十歳だったはずだ」
恵三は今、三十三歳ということになる。
清美の記憶に間違いはなさそうだ。同時に入籍もしているはずだ。そのことを報告する手紙だけは姉からもらっていた。
そして再開発が始まったばかりの恵比寿に開いたのが今の店だ。店名を「喜楽」という。しかし開店から三年後、麗が二歳の誕生日を迎えてまもなく、姉は幸せの頂点で旅立っていった。
祖父は話したくて仕方がないのだろう。生きているうえで、心底気に入った人間に出会える機会になどそう容易く恵まれるものではない。恵三と明子の二人に関して、饒舌になるのは致し方がないことなのかもしれない。
清美には、もっと別のことが気になっていた。
「その、手伝ってくれている若い女性っていうのは?」
「ああ、確か近所に住む常連の娘で、高校生っていう話だったな。調理師の資格が取れる専門学校への進学が決まっているから、短期間のアルバイトだって。それに」
「それに?」
「店を移転させなくちゃならないから、専門学校に通いながらでは働けなくなりそうだって」
「移転の理由は?」
恵三は高校卒業と同時に旅館の厨房で働き始めた。その間ずっと貯めてきた資金を使って手に入れた店を、そうやすやすと手放すとは思えない。何か事情があるのだろうか。
「何のことはない。建物の老朽化と街の再開発だって。これから渋谷はがらっと変わるだろうね。場所の割に家賃が安かったのもそのせいだってんだから、たった三年間だったけど有難いって言ってたよ。ただ、明子との思い出の場所にいたかったって思いは残るようだがね」