二人静4

小説

 人前に出ても恥ずかしくないような洋服を、清美は一着も持っていなかった。
 もちろん、上京後も和装で過ごすことはできる。恵三の小料理屋で働くことができるのであれば、なおさら今まで通りの和装の方が合っているのかもしれない。
「それでは何かと不便よ。明日の午後にでも買い物に行きましょうね」
 女将はそう言って笑った。
 旅館の仕事には休みがない。会社組織なのだから、有給休暇を取ることはできる。しかし、休みを取ったからといって何をするあてもない。知らず知らずのうちに毎日働いていることが当たり前となり、休みを取ろうという発想すらなかった。だから、給料は貯まるだけで出ていくことはほとんどない。洋服を買うための出費など、少しも気にすることがない。
 翌日の午後。女将の娘、洋子ようこが旅館にやってきた。清美が鉄輪に移ってきた時から、四年間一緒に住んでいた。二つ上なので、姉の明子と同い年になる。洋子は彼女なりの方法で清美を大切に思ってくれていた。いつも他愛のない話をしては笑わせてくれた。新しい土地、新しい人間関係のなかにあって、それがどれほどの助けになったかを、今なら客観的に理解することができる。大学を卒業した彼女は、街で会社勤めをしている。
「清ちゃんと買い物に行くっていうからさ、会社、サボって来ちゃった」
「着物だったらいくらでも選んであげられるけど、洋服となるとね。洋子がいてくれると助かるわ」
 それまで、恵子と一緒に街に出たことなどなかった。宿泊業には切れ目がない。女将と若女将とがともに宿にいないとなれば、責任をもって宿泊客をもてなすことができない。どちらかが宿にいてこそのもてなしだ。これまで守ってきたその前提を崩してまで時間を作ってくれたことこそが、女将が清美に対して取った最上の礼だと思えた。自分の我儘な決断のためにそこまでと、清美は胸が苦しくなる。
 平日ではあるものの、街にも人にも色が溢れていた。道行く人々の様子が清美には目新しかった。自分の知らないところで世間が動いていることを思わされた。
 好景気という言葉を耳にはするが、旅館のなかにいる限りその光景を目の当たりにすることはない。旅館の予約が常に埋まっている状態を考えると、やはり景気がいいのだろう。
 女三人だ。ああでもないこうでもないとにぎやかに話をしながら、デパートの売り場をまわる。洋服選びについては、清美自身はただ話を合わせているような格好だ。洋子の助言で白い開襟をはじめとした簡素なブラウスと、ロング丈のスカートをそれぞれ三枚ずつ購入した。膝上のスカートも勧められはしたが、やはり馴染めなかった。
 踵のある靴にカーディガン、薄手のコートに下着も必要だった。これから新しい生活をむかえるにあたって、とにかくそれなりの数が。あとは上京後に街に慣れ、季節が変わるたびに少しずつ買い足していけばいい。当面はこれで間に合うだろう。
 会計をしようとすると、女将が清美を止めた。
「気の利いたお餞別をあげられなくてごめんね。せめて必要なものぐらい、持たせたことにさせてほしいの」
 自分のものは自分で買うのだと頑なに主張することは可愛げがない。結局は女将が支払ってくれることになるとしても、礼儀として一度は断るべきだったかもしれない。しかし、清美はその申し出を有り難く受けた。
「清ちゃんはこの六年間、一日も休まずに働いたんだから、このぐらい当然よね。ついでにこれもお願いね」
 洋子が清美のものになるはずの洋服の山の上に、自分が気に入ったブラウスとスカートを一枚ずつのせた。
 出発の前日、身内によってちょっとした晩餐が設けられた。恵子の口からは身を案じる言葉とともに、いつでも帰ってきていいのだという、清美の居場所を保障する台詞が添えられた。しかし、清美の思いはすでに固まっていた。

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