馴染んだ和装から洋装に替えただけで、こんなにも気分が変わるものだとは思いもしなかった。一部の隙もなく自分の体を包み守ってくれていたものが、今や隙間だらけのふわふわと軽い布に取って代わっている。それが何かの間違いのように思える。
鉄輪を発つ日がおとずれた。湯布院駅までは旅館の送迎用のマイクロバスに乗せてもらった。この日、駅に向かうバスが宿からの帰りの客でいっぱいだったため、六十を過ぎても手伝いに来てくれている顔馴染みの運転手とは何も話せなかった。清美は最後尾に座り、窓の外の景色に視線を泳がせた。六年間、旅館のなかだけを忙しく走り回っていた。目に映る街の景色には何の未練もない。
「若女将、どうぞお達者で」
由布院駅でバスを降りた。バスはこの日の宿泊客を乗せて旅館に戻ることになっている。スーツケースを下ろすのを手伝ってくれた運転手が笑顔を向けてくれる。清美も微笑みを返した。
大分空港行きのバスに乗り換える。一時間ほど揺られただろうか。すぐに空港に着いた。飛行機に乗るのはもちろん初めてのことだったが、広い構内で迷っていると女性の係員が丁寧に搭乗口まで誘導してくれた。
電話でやり取りしていた通り、羽田空港の到着ロビーで祖父が待っていた。
「随分大人っぽくなったなあ」
変化に乏しい年代であれば別なのだろうが、何せ祖父と最後に会ったのは十六歳のときだった。十六から二十二までの六年は、女を変えるのに十分すぎる歳月だと言える。人で溢れ返る空港の構内で、清美の方から近づいて来てくれたからよかったよなものの、そうじゃなければ気が付かなかっただろうと祖父は言った。
「今回のこと、よく決断したな」
事前に連絡を取っていたからといって、清美の頭のなかにあることを一から十まで話したわけではない。しかし言葉の断片をつなぎ合わせると、一個の人間としての幸せを掴みに行くような決断ではないように思われるのだろう。
車窓には田畑が、やがてひしめき合う家々が流れてくる。そして高層ビル群が遠くに見えてくる。
「昼飯は?」
助手席側の後部座席に座る清美に、祖父は半ば叫ぶように尋ねる。清美は若いころに恵子が使っていたものだという腕時計をもらってきていた。見ると、間もなく三時になることが分かる。
「このままホテルまでお願いします」
一泊朝食付きの、いわゆるビジネスホテルに予約を入れていた。祖父が浅草の旅館に泊まるよう勧めてくれたが、今回の決断はあくまでも自分自身のものだ。必要以上に誰かに甘えるわけにはいかなかった。
行き先を言ってしまってから、祖父に対する態度があまりにも機械的に過ぎたと後悔した。しかし、祖父は笑顔で清美の言葉に応じた。何かあったらいつでも浅草に来てくれ。清美のためだったら、みんなが力になりたいと思っている。別れ際に祖父が口にした言葉には、嘘も誇張も含まれてはいない。路上に止めた車をわざわざ降りて、祖父が見送ってくれる。清美はスーツケースを傍らに置き、しばらく会わないうちに細くなった祖父の体を抱き締めた。祖父の腕が清美の背中に回され、きゅっと力が込められる。
「おじいちゃん、ありがとう」
清美は心からの感謝を口にした。体を離したとき、祖父の目には涙があった。
清美は祖父に手を振り、見守られながら重いスーツケースをもってホテルのロビーへと続く階段を上がった。チェックインを済ませ、部屋に入った。壁に天井に床のカーペットにと、貼りついたたばこのヤニが目に見えるかのように臭った。嗅ぎ慣れた匂いではあるが、こうも濃厚ではさすがに辛い。さっそく窓を開け放った。
旅で汚れた手を洗い、口をすすいだ。そうしているうちに、煙草の匂いは少しだけ和らいだ。掛布団をめくり、ベッドの上にごろりと横たわる。航空機を使ったために所要時間はそれほど長くはなかった。それでも初めて尽くしの移動に心と体が疲れをささやき合っていた。穴にすとんと落ちるように、清美は眠りについた。