二人静7

小説


 街なかの明かりが少しだけ減っただろうか。「喜楽」の暖簾が薄闇の中に浮かんで見える。明かりが点いた店内も、先ほどとは打って変わって静まり返っている。清美は引き戸にそっと指をかけ、ゆっくりと開いた。
「いらっしゃい」
 目の前に赤いエプロンをした店員が立っていた。
「おひとりですか?」
 その声に、清美は頷いた。
「よろしかったらカウンターにどうぞ」
この子が例の高校生なのだろう。清美のために五脚並んだ椅子の真ん中を引いてくれた。清美はそこに腰を落ち着けた。
「何にしましょう?」
 通しの小鉢を清美の前に置きながら店員が続けた。おそらく厨房にいるのだろう。恵三の姿は見えない。
「何かおすすめを」
 清美の言葉に、店員は少しだけ考える人の顔を作った。
「そうですね。この時間になるとほとんど出てしまって。食事はお済みですか?」
 清美は済ませていると伝えた。
「わかりました。少しお待ちくださいね」
 店員の姿が厨房に見えなくなると、低くくぐもった話し声が聞こえた。
 清美は改めて通しの小鉢を覗き込んだ。牡蠣のオイル漬けだろう。酒蒸しにした牡蠣をサラダオイルに漬け、味に深みを増す。鉄輪でも、広島産の牡蠣を使って同じように調理することがあった。蒸し加減が深すぎれば途端に牡蠣が固く締まってしまう。単純なようでいて加減が難しいのだと、料理長が教えてくれたことを思い出す。さっそく箸をのばす。そっと口のなかに仕舞い、ゆっくりと嚙み締める。蒸すことによって程よく抑えられた独特の味わいが、ふんわりと口のなかに広がる。この一品だけで、職人の仕事が丁寧なことが分かる。
 しばらくして、厨房からがっしりとした肩の張った長身の男が姿を現した。伏せた視線が清美のそれと交わった。
「任せていただけますか?」
 清美ははいと答えた。それだけを確認すると、男はまた厨房に姿を消した。
 男の仕事はとても静かだった。しゃあっと水道の水が食材を洗う音。かちりと調理器具がぶつかり合う音。それは確かに仕事の音なのだが、優しく耳を撫でるほどに穏やかだ。
「飲み物は何を?」
 いつの間にか店員が横にいた。清美は品書きを受け取り、開いた。
「そうですね、この、大吟醸を」
 品書きのなかでただ目に留まった文字を指差した。
 大吟醸と言う響きを口にしたかっただけなのかもしれない。旅館では、宿泊客が薦めるままに猪口ちょこで一、二杯程度の酒を付き合うことはある。しかし、酒の銘柄は九州の地のものしか知らない。
「宮城のお酒、だそうです。すみません、詳しくないんです」
 屈託なく微笑む様子があまりにも可愛らしく、清美も思わず相好を崩した。店員は清美の前に淡い水色の、ガラスの猪口を置いた。それを手にすると、彼女は猪口と揃いの徳利を傾けた。清美は良い香りのする透明な液体が流れるのを見つめた。店員の手が止まると猪口を口元に運び、唇を湿らせるようにほんの少しだけ含んだ。口のなかがぱっと華やいだ。
「おいしい」
 そうとしか表現することができなかった。
「私にも、ちょっとだけいただけますか?」
 清美が答える前に、店員は自分の猪口を準備していた。
「いいの? 高校生でしょ?」
 一瞬、店員の目が丸く見開かれた。化粧のせいもあるだろうが、確かに大人びて見える。清美は彼女がせっかく作ってくれたこの場の雰囲気を壊しかねない、自分の堅苦しい一言を悔やんだ。しかし、彼女がかえって笑ってくれたことに救われた。
「これも社会勉強ですよ」

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