清美は彼女が手にした猪口に徳利を傾けた。酒で満たされた小さな器を、彼女はそっと桃色の唇に運んだ。目を見開いたかと思うと、ほんとだ、美味しいとつぶやいた。
分らない者同士、酒の話を楽しんでいると、暖簾の向こうから声がした。料理が出来上がった合図だ。店員ははいと返事をし、料理を取りに行くとすぐに戻ってきた。
「お待たせしました。こちら、お使いください」
目の前にことりと置かれた皿には、皮が丁寧に剥かれた薄黄色の茄子が並んでいる。その上に鰹の削り節がのせられ、おろし生姜が添えられている。手元に置かれた醤油差しを傾け、少しだけ垂らした。いつも使っている醤油とは明らかに色が違う。量を加減して良かったと、内心ほっとした。
茄子を箸でもちあげ、口に運ぶ。適度に冷やされた茄子の甘みが醤油の旨みに引き立てられる。何よりも水っぽくない。
「おいしい」
自分でも語彙の少なさにあきれながら、素直な思いをこぼした。
「上がったよ」
暖簾の向こうから再び声が聞こえる。店員が小気味よく返事をして暖簾のなかに消えた後、今度は丸い皿を運んできた。
「はい、お造りです」
鯛と鰤、甘海老のそれぞれが綺麗に並んでいる。添えられた山葵を少しだけのせ、醤油をつけてまずは鯛を口に運ぶ。ただ新鮮なだけではない。甘みを引き立てる程に寝かせているのだろう。濃厚な味わいが口のなかに広がった。
「青森であがった鯛だって、大将が」
清美はゆっくりと咀嚼しながら頷いた。
「なっちゃん、そろそろ」
厨房から声が届く。
「えっ、いいんですか?」
清美は腕の時計を見た。十二時をまわったところだ。席を立たなければならない時間になっているのかもしれない。
なっちゃんと呼ばれた店員の問いかけに、恵三は言葉を返さない。店員が立つカウンターの向こうからは、おそらく彼の姿が見えるのだろう。その視線の先の男の様子を確認し、彼女は微笑んだ。
「もう、お店は終わりなのね?」
いよいよかと思う。胸の鼓動がしだいに高まった。
「大丈夫ですよ。ゆっくりしていってください。もう少し、何か作るみたいですから」小声でそう教えてくれた。「それからお酒、ごちそうさまでした」
店員はカラカラと木のサンダルを響かせ、清美の背中をまわって入り口に向かった。引き戸を開け、店のなかに暖簾を仕舞った。それじゃあ、おやすみなさいと笑顔を残し、再び厨房のなかに消えた。恵三とも短い言葉を交わした後、奥のドアが開閉する音がかすかに届いた。
何の脈絡もなくここに来た目的を話してしまったら、変な女だと思われてすぐに追い出されそうだ。かといって素性を明かすわけにもいかない。猪口の酒をちびちびと啜っていると、白い前掛け姿が現れた。
「もう少しお出しできますので」
不意を突かれて、清美は口ごもった。いえ、とだけ答えた。
そう言いながら、男が腰の後ろに手を回した。この時宜に前掛けを外すことの違和感が、清美の口を開かせた。
「どうか、されたんですか?」
厨房の方に向き直った男は、清美の言葉に引き戻されて振り返った。わずかだが、その顔に申し訳なさそうな色が浮かんでいる。
「お恥ずかしい話ですが、子どもが上で寝込んでまして」
時刻を考慮すれば、この日は麗に会えるとは思っていなかった。それはただ、もうすでに眠りについているはずの時間だからという憶測があってのことだったが、寝込んでいるとなると話は別だ。
「それはいけませんね」
まだ見ぬ麗の姿が霧のように不確かに、ふと目の前に現れたような気がした。
「様子を見がてら、起きてたら少し口に入れるものをと」
「こんな遅くに?」
「ちょくちょくなっちゃん、手伝いの女の子に看てもらってたんですが、眠っていたりあんまり食べたがらなかったりで。私もどうにも手が離せなくて」
「何を?」
「粥を。ちょうど今できたところで」
「私にも、お手伝いさせてもらえませんか?」
清美は知らず知らずのうちに、目に力を込めて恵三を見ていた。
恵三は驚かない。見ず知らずの女の言葉を真っ直ぐに受けている。それでも、何かを少しだけ考えている。
「こっちに」