二人静9

小説

 清美は席を立ち、恵三が促すまま厨房へと足を踏み入れた。コンロの上に小さな土鍋が置かれている。恵三が素早く鍋掴みを手にし、土鍋を盆の上の鍋敷きに載せた。小さな木の匙と、布巾がそえられている。
 その盆を手に奥のドアへと向かう恵三の背中に、清美は黙って付き従った。
 厨房の奥には食材を保管する空間があった。その一角に二階へとのびる暗い階段が見える。恵三が前になって上がった。階段を上がり切ると、右手に襖がある。一旦盆を床に置いた恵三がそれを引き開けると、その先に薄い暗がりが広がっていた。恵三はもう一度盆を手に、その中に入っていった。
 部屋の中央に小さな布団が敷かれている。タオルケットが掛けられたふくらみの一端に、黒い髪に覆われた小さな頭があった。その一連の形が、常夜灯のオレンジ色のなかに小さな、小さな像を結んでいた。その傍らに恵三が膝をついて座った。彼は布団のふくらみの上にそっと手のひらをのせ、とんとんと優しく叩いた。次に熱を確かめるように、その手を額にあてた。清美はその光景を視界に収めながら、布団を挟んで恵三の反対側にそっと座った。
「苦しくないか? 少しは食べよう」
 熱のためかその他の苦しみのせいか、女の子は眠ってはいないようだった。自分の体に触れる恵三の手の動きと声とに反応して、薄く瞼を開いた。
「うん」
 もぞもぞと体を動かし、上半身を起こそうとする。恵三がその背中にそっと手を添えて、女の子の動きを助けた。大切に大切に。彼女を愛おしむ恵三の心が透けて見えた。
「すみません、電気を」
 女の子の高さに降りていた恵三の視線が、不意に清美を捉えた。清美は立ち上がり、丸い蛍光灯の中心から垂れ下がるひもを引いた。蛍光灯が短く明滅を繰り返した後、点灯した。清美の視野の下で、その明るさに彼女が瞼をきつく引き結んだ。そっと瞼を開いた先に見知らぬ女が立っていたら驚かせてしまう。清美は少しでも彼女の戸惑いを小さくするために、無駄なことと知りながらも元の場所に座り直した。そして背筋を伸ばした。
 蛍光灯の光に慣れるまで、女の子は瞬きを何度か繰り返した。
 やがてゆっくりと瞼を開いた。その目が清美を捉えた瞬間から、見る間に大きく見開かれていく。今度は瞬きを忘れたかのように、清美の姿を捉えたまま動かない。やがて二つの瞳から、驚くほど大きな涙の粒が次々とこぼれ落ちた。
「お母さん」
 その声を聞いた瞬間、清美の胸に何かが刺さった。その痛みを何と表現したらいいのだろう。清美には分らなかった。しかし、少なくともその痛みが抽象的なものではなかった証拠に、清美は思わず胸を押さえていた。
「お母さん」
 二度目の言葉は、清美に向けられたものではなかった。そう言って静かに、麗は嗚咽した。小さな布団の上に座ったまま、同じように小さな体が震えていた。
 どんなふうに、どんな言葉で母親の死を教えられてきたのだろうか。その言葉によって感情や涙が封じ込められていたのかもしれない。しゃくりあげるたびに肩を震わせる麗の姿を目の当たりにしたこのとき、清美の目には小さな体から孤独と我慢が溢れて見えた。
 清美は明子ではない。麗はそのことを十分に理解している。だからこそその場に小さくなっているしかない。母親ではない、初めて会った女の胸に飛び込むことなどできない。分かっているからこそ、行き場のない感情を自分で何とか処理しなければならない。それでもつい声に出してしまったほど、麗は明子を欲していた。

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