二〇〇五年。
佳佑は長男の俊真が生まれたときのことを思い出した。こんな自分が、父親になることができるとは思ってもみなかった。もしそんなことがあろうものなら、子どもに暴力ばかりふるう父親になってしまうのではないか。手を振り上げただけで子どもが自分を守るために両腕で頭を庇うような。かつての自分がそうだったように。
ボタン海老と麗紅を一緒に箸で挟み、口に運んだ。海老の弾けるような触感と濃い柑橘の香りとが口のなかで華やぐ。次に宇土を噛み締める。独特の風味を残したままに、甘い。思わず目を見張った。
「新しい、味ですね」
見た目の美しさ通り、それぞれの食材が華やかさを競い合っている。
「二代目の料理です」
「息子さんですか?」
カウンターのなかの微笑みが柔らかい。
「この店は、四十五年以上先代一人で切り盛りしてきました。もうそろそろという話が、一昨年実現しました。代替わりしてようやく一年経った去年から、この騒ぎですから。何ともタイミングが悪いですよね」
「それでも、続けてこられたんですね」
「二代目が始めたお昼のお弁当が、この近辺のオフィスに勤める先代のころからのお馴染みさんたちにたくさん買っていただいているんですよ。それに、夕食用のデリバリーが思いのほか当たって」
「先代は、もう厨房には?」
「特別なお客様には」
「そうですか」
自分のような一見の客は対象外だろう。
厨房はことのほか静かだ。食材を洗う水音、調理器具がぶつかりあう乾いた音、包丁が俎板を叩く小気味よい音。調理にまつわるありとあらゆる音が聞こえてくるのに、そのどれもが低く抑えられている。客は佳佑一人だ。雑音が少なくなっている分、厨房の音がもっと強く聞こえてきてもいいはずだ。しかし、さらに小さく抑えられているように感じられるのは気のせいだろうか。静かな空間に身を浸しているせいか、心が凪いでくる。
「お酒を飲まれないというのは、抑えてらっしゃる?」
遠慮がちな問いかけではあるのだが、瞬時に心が固く引き締まる。
「祝いの席の、乾杯に口をつける程度です」ゆっくりと頷くあの人の顔から、笑みが消えている。つい、言葉を繋いでしまう。「酒は楽しいものにもなるし、怖いものにもなる。人や飲み方によって変わるものですし、コントロールすることができるものだということは分かるんですが、なかなか」
余計なことを言ってしまった。後悔はすれど、放った言葉は取り戻すことができない。頷くあの人の真剣な表情に、何か大きな間違いを犯したような気がした。
そのとき、厨房で音がした。ごく控え目な、皿を置く音だ。