「なぜでしょうね。誰しも遅かれ早かれ親の死に直面することになります。その場に居合わせることと居合わせないこととの間に、そんなに大きな違いはないように思うんですが」
「それは、個々の親子関係によるでしょうね。生前に十分な関係が保たれていれば、死に目に会えなくても悔いは残らないと思います。その女性は相手の真意も、伝えたい思いも届かないままに母親が死んでしまった。そういうことです」
「私は母とはいつも一緒でした。それで悔いが残っていないのかもしれませんね」
父親はと問われることを、どこかで準備していたように思う。しかし、あの人はそれ以上訊ねようとはしなかった。
煮汁であめ色になった大根にゆっくりと箸を下ろす。繊維に沿って割れた断面にまで色が、味が染みわたっている。箸で切り分けて口に運ぶ。じゅっと、旨みが口を湿らせる。次に鰤を掴む。そしてまた大根を。その美味さに、思わず箸を動かし続けてしまう。一皿を平らげるまでがあっと言う間だった。
「母との暮らしに過不足はありませんでした。住み込みの仕事でしたから、母が仕事をしている間も同じ屋根の下にいられました。何もかもを共有していたから、満足することができている。そういうことなんでしょうね」
頃合いを見測るように、今度は目の前に鍋敷きが置かれた。続いて鍋が。湯気の向こうに鴨肉とねぎがあった。
「はい、どうぞ」
焼き網の焦げ目がついた鴨肉とねぎを箸で小鉢に移した。そこにひとすくいの汁を注いだ。一旦箸を置き、小鉢に直接口をつけて汁を啜った。食べ方として、礼儀を逸脱しているかもしれないなどとは考えなかった。ただ、好きなものを好きなように食べることの面白さが、こんな日には許されるような気がした。
見た目には味の濃そうな汁が、すっきりと舌になじむほどに優しい。
「鴨は先に炙っておくと、お肉の旨みがぎゅっと閉じ込められるんです。そのために、煮ても灰汁が出なくなるんですよ。そして、硬くもならないんです。料理の手順には、先人の知恵が閉じ込められているから、知っておく価値があります」
「序、破、離の、序ですね」
返事として、言葉の代わりにあの人の微笑みが返ってくる。
「その通りだと思います。序を会得するだけで料理人としての一生を終えても、十分な意味があると私は思っています。料理にまつわる序にはそれだけで膨大な情報量があり、技術が必要です。おかげで破も離もなくても、お客様には十分に満足していただくことができます」
「まったくその通りです。さっきの鰤大根にこそ料理の基本が詰まっているのでしょうね」
「新しいものに手をつけたくなる気持ちは分かるんです。華やかに思えますからね。しかし、基本をおろそかにしてしまっては、人の心はつかめません。二度三度と、その店に足を運びたくなる理由にはならないんです」
「この店には、やはり常連さんが?」
「お陰様で、とても。有難いことです」
先代が得た客を、店と一緒に二代目が引き継ぐ。味は少しずつといったところなのだろう。
「二代目は基本をおろそかにしているわけではありませんが、基本と新しいものとの境目をまだ理解していないのかもしれませんね。だから、どこか人の芯にまで触れることができていない」