「失礼します」
それを見ていたのだろう。店先で何らかの作業を終えた若い男が横に立った。ゆっくりと丁寧に土鍋を持ち上げると、それを手に厨房へと姿を消した。
「彼が、二代目です」
あの人が微笑む。その成長を見てきたからなのだろう。そしてこれからも見守り続ける覚悟が、その視線にあふれている。序だの破だの、あれこれともっともらしい言葉を継いでしまった自分が恥ずかしかった。
「後継ぎがいて、安心ですね」
あの人が頷いた。
「もう何年も前になりますが、料理人になりたいと言われたときには驚きました。夫婦ではない夫婦を見せてきたのに、そのすべてを肯定してくれているような」
「形ではありませんよ」
恵三と明子とは死別のはずだ。あの人が恵三と婚姻関係を結べないはずはない。それを外見上も幸せな形にできなかったのは、おそらく佳佑の父親のせいだ。あの男が酒に飲まれることさえなければ、あの人が辛い行為に手を染める必要などなかった。外面も内面も、幸せな人生を歩むことができていたはずだ。
ことりと音がした。それを合図に、あの人が再び厨房に姿を隠した。時間を置かずに暖簾が開き、盆を持ったあの人が現れた。カウンターの脇をすり抜けて横に立つ。この日何度目か、同じ動作が繰り返された。
茶碗のなかに白米が盛られている。そこに温め直した鴨鍋の汁が注がれている。鴨の脂を受け、米粒がつやつやと輝いている。その上にちょこんとのせられたおろし山葵の抑えた緑が、全体に色のアクセントを加えている。すでにどんな味かを予測することができる安心感も手伝ってか、素直に食べたいと思わせる一品だった。
「味を引き締めるのに黒胡椒を使うこともあるんですが、今日は山葵で」
添えられた木の匙を手にひと掬い口に運ぶ。温かな汁の旨みと甘辛さが、程よく質の異なる白飯の甘みに絡む。腹が満たされる満足感が体を温める。
なぜだろう。初めは見てやろうと思っていた。どんな料理を出す店なのか、客の層は、料理に対する反応はどうか。どんな生活をしているのか。幸せなのかそうではなさそうなのか。どこかに綻びが見つけられないものかと。それがいつの間にか、ただの客の一人になっていた。
「ふた品目の、ぼたん海老と麗紅の温かい前菜が明らかに雰囲気が違っていました。エシャロットは食材の音の響きのわりに落ち着いた味わいがあって、鰤大根と鴨鍋には同じ種類の味わいがありました。料理人が違う、ということなのでしょうね」
「その通りです。味そのものでお分かりになりましたか?」
「それももちろんですが、音が」
「音?」
「はい」
「それは、どんな?」
「食材を洗う、切る。調理器具が置かれる、ぶつかりあう。そんな、料理にまつわるすべての音です。最初から静かでしたが、途中から、もっと」
「そうでしたか」
「料理の雰囲気が大きく変わったので。その他にはと、気をつけていたんです」
「先代の手は、とても静かです。それはそれは、とてもとても。先代そのものです。あなたが生きてこられた時間そのものに、うまく合っているといいんですが」
何かが切り替わる音が、佳佑のなかでかちりと鳴った。