「他にお客さんがいないことは気にしないでください」
あの人の声に、ふと我に返った。瞬間的に隣の席の背に掛けていた上着に手を伸ばした。
「それでは?」
そう言いかけると、あの人が手で佳佑の動きを制した。
「もう、お店は閉めましたから」
動き出そうとした体から、ふと力が抜けた。もう一度、椅子に体重を預け直した。
「もう少し、お話しできませんか?」
そう言うあの人の顔からは、いつの間にか笑みが消えていた。微笑みたいのにうまくできない、そんな曖昧な不安があの人の顔に広がる。自分も同じような顔をしているのではないか、そう思えた。
「ご迷惑では?」
あの人が首を横に振る。
「本当に、いろんなことがありました。佳佑さん、あなたにも」
人に佳き事を為し、人を佑るように。そんな願いを込めて、両親がつけてくれた名前だと聞いている。自分の名を示すその音があの人の口から零れ落ちるとは、考えてもみなかった。しかし何故だろう。自分のなかに驚きがない。
「では、少しだけ」
店のなかの光は変わらずに灯されている。奥からは包丁が俎板を叩く音も、器を洗い流す水音も聞こえている。それなのに佳佑を包み込む空間自体が一段暗く、静かになっているように思える。そこに、新たな要素が加わった。雨の、匂いだ。
「雨ですね」
佳佑は言った。
「雨だれの様子からすると、驟雨とでも呼ぶものでしょう」
あの人の声が遠い。幕を一つ隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。それがカウンターの内外を隔てる、透明なラミネート板による効果だとすぐに気がついた。むしろ直前まで気にならなかった方が不自然なのだが、音の距離にはラミネート板の存在とは関係のない、時間の隔たりがあるような気がした。
「もしよろしければ、ほんの少しだけ召し上がりませんか?」
あの人が戸棚から透明なガラスの片口を取り出した。
「はい」
なぜだろう、自分に固く禁じてきたはずの行為を、迷うことなく受け入れていた。
目の前にすっきろとした形のいい、片口と揃いのぐい呑が置かれた。
「山形のお酒を」
あの人がそう言って、冷蔵庫から深い緑色に透き通る酒瓶を取り出した。それをラベルが見えるように片口に傾けた。そこからさらに、目の前のぐい呑に酒が注がれた。
ガラスの縁に唇をつけ、少しだけ口に含んだ。淡くすっきりとした味わいのなかに、さわやかなふくらみがある。口から鼻に抜ける香りと舌に広がる味わいに一体感があり、すっと粘膜に馴染んだ。経験がはいはずの味であり感触なのに、なぜか懐かしい。
「地域の酒造好適米で作られています。すっきりしていて、美味しいでしょ?」
「本当に」
もう一口、含む。最初のインパクトとは異なるが、やはり美味い。その対岸で、もう一つの声がする。
「いいんでしょうか?」
あの人が微笑む。佳佑は自分の目がどうかしてしまったのかと疑った。そこには蜃気楼に歪められたようなあの人の笑みがあった。
「半世紀、もう五十年も前のことです。あなたも私も、もう縛られなくていい」
手元に視線を落とした。ぐい呑に残った酒が光の形を変えながらとろとろと動いている。