蓮花23

小説

清美きよみが受け取った絵手紙にあったんだ。もしも佳佑君が訪ねてくることがあったら、俺が作ったものを出してやって欲しい。ただ、それだけだ」
 そう言って恵三は厨房の中に消えた。再び戻って来たとき、彼は二枚の皿をのせた盆を手にしていた。一方にはまぐろたい、しめ鯖の三点盛が、もう一方にはゆり根と銀杏の素揚げがあった。そして小皿と中皿が三枚ずつ。あの人と恵三と自分の分だ。それに合わせて、あの人が新たにぐい呑を二つ準備した。片口には新たな酒が注がれた。
「今度は静岡のお酒。修善寺の旅館の近くに、酒蔵があったのは覚えてる?」
 始まりの地、修善寺。そのころの記憶を問われることが、答えることが許されている。佳佑は、自分の根っこに水が注がれていることを知った。
 しかし、三杯目の酒は丁重に断った。この年にもなって、初めてと言っていいほど丁寧に酒を味わった。そんな飲み方をするには、ぐい吞二杯で十分だ。
 あの人はすんなりと片口を引っ込めると、深く頷いた。
「普段、お店のものをいただくなんてことはしないけど、今日は特別ってことでいいかしら?」
 解かれた言葉は恵三に向かった。彼は頷いた。
「料理も、おんなじってことで」
 目の前に置かれた恵三の料理を味わうたびに、時間が溶けていく。
 あのころ、幼かった佳佑には父親が他人の命を奪ったという事実がうまく飲み込めなかった。父親その人の死も。
 周囲が異常に騒々しかったことが、まさか自分の身に直接かかわることだとは思いもよらなかった。その後の逃げるような転居と転校の戸惑い。知らない土地での孤独。父親が亡くなったことで何かしらの脅威が取り払われた事実。そのことに安堵する自分。
 ただ日々を生きることで精いっぱいだった。
 最後の一口の酒に、古い記憶が少しずつ体から染み出していくのが分かる。佳佑はその一口を舌の上で転がした。そしてぐっと飲み込んだ。
 だが、そのときは突然降りて来た。
「ごめんなさい。私、やっぱり。後はお願い」
 そう言って、あの人が手にしたぐい呑をカウンターに置いた。思いのほか強く響いたその音に、佳佑は我に返った。彼女は小走りに厨房の中に姿を消した。今度は新たな料理を取りに行ったのではない。そのことだけは確かだった。
 佳佑は恵三を見た。恵三の視線は、あの人の背中を追いかけたまま暖簾の上に留まっていた。
「君が、いつかここに来るかもしれないとは思っていた。俺も、清美も」
 恵三の体が佳佑に向き合った。やがてその視線がゆっくりと佳佑に注がれた。
「どうしてですか?」
「理由なんか、何もない。ただ、そんな日が来ることがあるかもしれない、そう思ってただけだ。」
「母と妻が亡くなって、一人になりました。自分のなかで唯一わだかまっていたこと。そのわだかまりを、解いておきたかったのかもしれません」
 自分自身のことなのに、確証が持てない。そんな曖昧な気持ちでここに来てはいけなかった。あの人の突然の不在こそが、その証だった。
「それは、あくまでも君の都合だ」
 抑えた声音に、静かな怒気が含まれていた。佳佑は黙った。恵三の声に臆したのではない。ただ、自分の愚かしさが身に染みた。指先でゆっくりとなぞるように、この場所にたどり着くまでの道のりをさかのぼった。そこには、確かに佳佑自身の思いしかなかった。

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