恵三はごつごつと太い指にぐい呑をのせ、ゆっくりと回している。なかの液体がとろとろとたゆたう。その透明な静謐を二人で見つめた。佳佑は恵三の言葉を待った。
「君がここに清美を訪ねて来るときのことを二人で何度も考えてきたし、話し合ってもきた。苦しみを訴えたいのか、過去を捨て去りたいのか。どんな理由であれ、清美は君の訪問に応えたいと思っていた」
佳佑に発すべき言葉はない。あの人の圧倒的な体験の前では、自分の人生は平坦に過ぎた。恵三は訥々と言葉を繋ぐ。
「でもな、実現しないことこそが幸せな場合もある。こうできたら良かったのにって、死ぬまで思い続けるだけでいいこともある。君とのことはそうあるべきだった」
五十年以上もの時が流れた。それなのに、君の父親に首を絞め続けられた挙句死を覚悟した恐怖も、同僚を助けるために君の父親を殴ったときの手の感触も、薄れるどころかかえって鋭く尖り続けている。PTSD、心的外傷後ストレス障害。言葉にするのは簡単だが、ひどいもんだ。自分が自分で、清美が清美ではいられなくなる。清美はこれまでもよく戦ってきた。それは今も続いている。そのことが今日、はっきりした。このまま帰ってくれ。そして、ここにはもう来ないでくれ。恵三はそう言った。
人の経験の重さを、単純に比較することができるなどとは思っていない。母と自分とがその他の大勢の人々とは違う経験のなかで苦しみ続けて生きてきたのは紛れもない事実だ。それを比較しない代わりに同等だと捉えていたところに自分の浅はかさがあった。あの人の、圧倒的な大きさの負の体験になど、思い至らなかった自分にようやく気がついた。
「泥のような人生のなかでも、清美は必死になって生きようとしてきた。小百合さんも同じだったはずだ。そうやって咲こうとしている花を、せめて誰か一人ぐらい支えてやったっていいじゃないか。清美のそれは、俺が引き受ける」
恵三はそう言ったのだと思う。確かに聞き取ることができるのに、その声が果てしなく遠い。
「小百合さんは一つだけ間違った。君がここに来ることを、小百合さんは心のどこかで望んでいたんじゃないか? この店を一緒になって守ってきてくれた清美の事情をよく知りもしないで、俺の料理を君に食わせてやって欲しいだなんてな。惚けてるにもほどがあるってもんだ。冗談じゃない」
恵三が先に立ち上がった。そしてカウンターの向こう、暖簾を割って店の奥に姿を消した。
俺は、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ。
佳佑はゆっくりと立ち上がった。椅子の足が床との間でギギギと鳴った。上着とブリーフケースを手に引き戸に向かい、外に出た。戸に向き直り、閉めた。数歩下がり、その場に立ち尽くした。
しばらくすると、磨りガラスの向こうから鍵をかけるガチャガチャという音が聞こえてきた。店内の照明が落とされた。カウンターがあるはずの位置にだけ、ごくわずかな光を感じた。佳佑は踵を返した。
おそらく、十一時を回ったころだろう。夜はまだ浅く、赤黒い新月が夜の闇に沈んでいる。ビルの間を吹き渡る初夏の風は生温かく、肌にまとわりついた。
この後、どうすればいいのだろう。どこに行けばいいのだろう。
住む家はあっても、誰の心の中にも自分の居場所はない。
この期に及んで死者の、母の人生を汚してしまった。あの人と同じように、ひたむきに咲き続けてきた小さな花を守り切ることができなかった。踏みにじらせてしまった。
母の面影に触れた途端、佳佑の体は震えた。
星の見えない、ただただ真っ黒な夜空を、佳佑は見上げた。
了
※「二人静」「百日紅」「月見草」「蓮花」は、連作集『咲く野の日暮れは』に収めるために書いた作 品です。当初は短編五作品で構成する予定でしたが、訳あって一作品を除外しました。いつの日かこの連作短編集を別の形で世に送り出す機会に恵まれるようなことがあれば、除外した作品に代わるものを別に書き上げ、空白にあてはめたいと考えています。