蓮花4

小説

 あの店はどうなっているだろうか。
 夏椿の枝を剪定鋏で整えながら青い空を仰ぐと、ふとそんな思いが下りてきた。
 都内にあるはずのその店を一度も訪れたことはない。店構えや暖簾を見たこともない。知っているのはあの人の存在だけだ。
 テレビを点けるたび、まずはウイルスの感染状況が報じられる。それに合わせ、緊急事態の収束を占う専門家の意見や情報が行き交う。
 感染が拡大するたびに緊急事態宣言が出され、落ち着いては解かれた。最初の宣言から一年を過ぎるまでに山を三つ数えた。その間、飲食業界の窮状やその打開を目指した各店の取り組みなどが報道されるたび、あの店の状況はどうだろうかと考えるようになった。
 コロナ禍にもかかわらず、いや、それだからこそ、祐子が亡くなってしばらくすると二人の子どもたちは家を出た。特に佳佑との関りに不都合が生じたわけではないことは分かっている。
 都庁に詰める時間が明らかに長くなった俊真は、仕事場の近くに住む必要性をそれ以前から口にしていた。三回目の緊急事態宣言が出されたのを機に、都庁近くのマンションの一室を借りることになった。国境を越えた人流が制限されるようになって国際線への搭乗の機会がなくなった友香は、出向という名目で大手家電量販店への配属が決まった。店舗近くのアパートの一室が航空会社によって借り上げられ、そこに引っ越した。
 あの世とこの世を含めて四人家族が急にばらばらに住むことになった。
 一人住まいをするようになり、時間的あるいは精神的な隙間ができた。意識下で少しずつ広がっているらしいその隙間の大きさに合わせ、気がつけば例の店とあの人の存在に想像を馳せる時間が増えていた。区の名前までは分かっているものの、その店の具体的な名前も場所も分からない。しかし、数は限られているが知る手掛かりはある。どの手掛かりを使うのかは情報を握っているはずの相手と佳佑との関係次第だから、自ずと一つに絞られる。思い切ってスマートフォンの電話番号を探した。実際にその番号に連絡を入れるまで、何度スマホの電源を入れては切ったことだろう。表示させては思い直してを繰り返すうち、とうとう通話ボタンを押したのは、積極的に外食産業と観光業を支援しようとする政策が始められたころだった。
 スマートフォンという名の小さく薄い機械に穿たれた穴から零れ落ちる声に、懐かしさが込み上げる。久しぶり、どうしてた? 元気にしてたよ。そちらは? 相変わらずだ。そんな言葉を交わし合ったのだと思う。母が修善寺の温泉旅館で仲居をしていたころ、旅館の女将の長男である桂木隆一かしわぎりゅういちとは同級生でもあり、何でも話し合える関係にあった。立場の違いこそあれ、隆一の両親をはじめとした周囲の大人たちが二人を同等に扱おうとしていたこともあり、互いに尊重し合う間柄だった。母の小百合さゆりと佳佑が修善寺を離れる原因となった事件のあとはさすがにその関係を維持することが難しかったが、当人同士は極力相手を同等と見なす努力を続けようとしていた。

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