一定の期間、一定の費用をかけて作成された報告書を目の前に差し出されたとき、胸の奥にすっと冷たい空気が流れ込むような違和感を得た。それが何かの警告であることは、佳佑自身がよく知っていた。
「この書類をお渡しすれば、我々の仕事は終わりです」
ブラインドの隙間から差し込む真昼の光に、室内の物の輪郭がくっきりと浮かび上がって見えた。
費用は当初約束した範囲に収まっているという。目的が果たされた今、佳佑が書類を鞄に入れてこの場を立ち去れば、契約上のすべての関係が終わる。しかし、担当した興信所の職員はお節介なのは分かっていますと前置きした後、今回の仕事以上の言葉を口にした。
「もしも相手に会うことをお望みなら、よした方がいいでしょう」
「なぜですか?」
興信所の職員がそういう理由は分かっている。しかし、あえて問うた。男は片方の口角を上げた。
「この女性の行き先について調査を進めていくうちに、依頼人であるあなたの過去というか、境遇についても知ってしまいました。あなたがこの方の目の前に姿を現した時点で、相手にとっては十分な脅威になります。つまり、あなたの出現自体が、脅しになるということです」
「最後に顔を合わせたのは、もう五十年以上も前になります。半世紀です。お互いに覚えているわけがないじゃないですか」
それはそうだろう。自分で言葉を発しておきながら、佳佑は妙に納得してしまう。そうだ、覚えているわけがない。そして、これから何をしようというのでもない。ただどのようにこの五十年を遣り過ごしてきたのか、あの人の年輪の積み重ねを見ておきたいというほかはない。
「これは、私の経験から言えることですが」興信所の職員は下がった眼鏡を右手の中指で押し上げた。「人は、匂いを感じるものです。それは嗅覚という意味ではありません。全体の雰囲気とか空気感とか。およそ言葉にし難いものですが、分かるものなのです」
そうですか。それなら、あの人に会うことは差し控えます。そう返事をして、興信所をあとにした。
アスファルトの照り返しに肌を灼かれながら、佳佑は目の前に続く道を歩いた。体がふわふわと浮き上がるような動揺が心を落ち着かせてはくれない。歩きながら手にした封筒の口を少しだけ開いたが、すぐに元に戻した。
興信所の職員が言っていた通りだ。あの人の生活に、佳佑が立ち入ることなど許されない。
決して安くはない費用で手にしたものではあるが、これはこのまま封印し続けなければならない。家に帰ったなら、すぐに書類棚に仕舞おう。シュレッダーにかけて、そこに記された文字を二度と読めないようにしてしまう必要があるかもしれない。持っていてはならないはずのものを手にしてしまった。そんな思いが、自宅へと向かう佳佑の足を自然と早めた。