蓮花12

小説

 耳慣れているのだろう。あの人が盆を持ってカウンターから厨房に移った。そしてすぐに戻ってきた。再びぐるりとカウンターを回り、空いた皿を下げ、次の料理を置いた。手元に視線を落とす。湯気と一緒にふわりと香るのは、焦げた醤油と魚の匂いだ。
「うわっ」
 思わず声をもらしてしまう。目の前に、子どものころからの好物がある。
 鰤のあらのわずかな窪みにたまった煮汁が、濃い飴色でありながら透き通っている。流水できれいに洗ってあるのだろう。臭みが出る血合ちあいが丁寧に取り除かれていることが分かる。鰤の身に箸の先をあてて力を入れると、逆らうくらいの弾力を見せてからそれを受け入れて割れる。口に運ぶと、煮汁を滲ませながら濃厚な旨みが口のなかに広がる。思わず相好が崩れるのが自分でも分かる。
「これは、美味しいですね」
 母親の得意料理だった。
「母は、料亭の厨房で働いていました」温泉旅館と料亭。言葉の、少々のすり替えは許されるだろう。「鰤のあらを使った料理は料亭で出すこともあるようでしたが、使わないときには時々もらってきて、家でこれを作ってくれたんです」味もよく似ているような気がするのは、懐かしさのせいだろうか。
「何しろ、貧しかったですからね」
「お母様は?」
「五年前に他界しました。八十四歳でした。今どきの感覚では、少しばかり早かったような気がします。もう少し、親孝行させてくれてもよかったのになんて、都合のいいことを考えています」
 経済的な余裕の無さやつきまとう過去に苦しめられはしたものの、母との暮らしは概ね楽しいものだった。日常的な、楽しかった場面を思い出してやりたいのに、幼い佳佑の体を抱き締めて、泣きながら酒の入った父親の暴力から守ってくれたときのことばかりを思い出す。
「看取ってあげることはできましたか?」
「はい。私と妻と子どもたちとの同居も、それなりの期間にわたって確保することができましたし。運がよかったのだと思います。あなたは?」
 事件以前のあの人の人生について何一つ知らなかったことに、初めて思い至った。それは不思議な感覚だった。
「私の両親は、事故で二人とも一遍に亡くなりました。看取るなんてことはできませんでした。だから、そこには何も不足は感じていません」
「そうですか」
「ただ、それができなかった、させてもらえなかったことをずっと引きずってきた若い女性が身近にいるものですから」
 娘の同級生なんですけどねと、言い添えられた。

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