勝手なことだとは分かっていたが、柏木は望月の言葉に得心がいかなかった。
望月は続けた。正確に言えば、怖いものがないという事実そのものに思いあたらなかった。怖いものがないのが当たり前で、実際に怖いものができて初めて、怖いものがなかった自分に気づかされた。
毎日営業に出ればそれなりの成果を上げていた。月の業績を累積すれば、同じフロアにいる五十人もの同僚のなかで、トップの成績を連続させることも多くあった。約六十万円もの商品を打率三割で売れば、基本給にマージンがついて月の収入が七、八十万円を超えることもあった。昼の十二時に出社して、夜の十二時過ぎに退社して、それから毎晩のように明け方まで同僚と酒を飲んだ。そして酔ったまま車を運転して帰宅していた。
「それで、ある日事故を起こしたんです」
「飲酒運転で、ですか?」
「そうです」
公立私立を問わず、通常、前科がある者は教師にはなれない。現在教職に就いているということは、その場面では飲酒運転で逮捕されなかったということか。望月がどうやってその場を切り抜けたのか、柏木はいつしか彼の話に引き込まれていた。
「逮捕されなかったってことは、警察は呼ばなかったんですか?」
自分を飲み込むように、柏木は訊ねた。
「いえ、呼ばれました。事故の相手はタクシーでした。運転手が無線で本社に連絡を入れて、そのままタクシー会社から警察に通報されました」
望月はそのときの状況を柏木に話した。
事故現場に駆けつけたパトカーの後部座席に乗せられた望月は、様々な質問を受けた。住所、氏名、年齢、職業。免許証を見れば分かることも含まれていたが、口頭で答えさせられた。質問にはできる限り誠実に答えたつもりだった。警官からは飲酒の事実をいつまで待っても問われなかったが、望月はもう逮捕されるものだと思っていた。覚悟ができていたなんて格好のいいことは言えない。止めようと思っても体の震えを止めることができなかったことを覚えている。そう望月は言った。
「もうすべてを諦めなければならないと、自分に言い聞かせていました」
「諦めがいいんですね」
柏木の言葉に、望月は小さく笑った。
ひと呼吸置いた後、望月は言った。
「実際には、一つだけ諦めきれないものがありました。こうなってしまった以上、諦めなければならないと一旦は覚悟したはずでした。でもその一方で、諦めなければならないという事実を突きつけられて、得体の知れない何か大きなものの力に、体が握り潰されるような恐怖を感じたことを覚えています」
望月は残った酒を飲みほした。少しだけ上に向けた顎の下で、大きな喉仏がごくりと上下した。空になったぐい呑に、美夏がゆっくりと酒を注いだ。その仕草が優しかった。望月は一瞬だけ、美夏と目を合わせた。
「自分でも驚きました。普段はいつでも手に入れることができるはずのものだったので、まさか失うことがあるなんて考えてもみなかったからです。それを失うことを考えただけで体が震え出すなんて、思ってもみませんでした」
「諦めきれなかったものって、それは何ですか?」
ひと呼吸置いた後、望月は言った。