「夢、です」
柏木の胸に、さらりと乾いた風が吹いた。
「夢、ですか?」
望月の口をついて出た、何か甘酸っぱいその言葉の響きが、柏木には不思議なもののように思えてならなかった。
「そのときの、望月先生の夢って、何だったんですか?」
「教職に、戻ることです」
「戻るって、営業をやる前は教師だったんですか?」
「そうです。今と同じように、今とは違う私立高校の教師でした」
「最初の職業が教師だったのかと」
「あまり多くの人には話していませんが、大学院を出て私が最初に就いた職業は、高校教師です。それを二年で辞めました」
「なぜ安定した仕事を棄てて、営業職に?」
「そのまま教師を続けていくことに、うまく言えませんが、漠然とした不安があったんです。強いて言えば、何もない自分が常に生徒の上に立っていることに対する、危なっかしさのようなものです。いくら相手が生徒だからといって、当時の私のように薄っぺらな人間が、必然的に人の上に立ってしまう立場にいてはいけないような気がしたんです。だから他人よりも低い場所に立って、自分を曝け出して、信頼を得た上で商品を買ってもらえるような経験をして、自分を膨らませておきたいと思ったんです。だから、転職しました」
望月の言葉に、柏木は自分の胸が塞ぐのを感じた。
「随分贅沢な悩みですよね。望んでいても、教師になれない人も大勢いたでしょうに」
個人的な不安を不満に変えて、無関係なはずの望月にぶつけている。そう自覚する前に、言葉が唇を押し開いていた。
「そうかもしれませんね。しかし当時の私にとっては、真剣な悩みでした」
「いくら自分の経験を深めるためだと言っても、仕事を辞めるって、そんなに簡単なことじゃないですよね。時代も時代だったはずですし。その当時の教え子たちを裏切ったことにもなるんじゃないですか?」
望月には、柏木の言葉に動じる様子が少しも見られなかった。
「特に根拠があったわけではありませんが、転職については、何となくどうにかなるように思っていました」当時の教え子たちを裏切ったことになるかどうかということについては、裏切ったことになるとは思わないと答えてから、望月は言葉を続けた。「自分はそれほど特別な存在ではないし、誰か特別な教師しか受け持つことができないような授業があってはならないはずです」
美夏がカウンター越しに手を伸ばし、望月の前に皿を置いた。続いて柏木の前に。見るからに脂がのった、色の取り合わせが綺麗な刺身二品が、身を寄せ合うように大根のツマに横たわっている。赤みが鮪、青身が〆た小肌だ。
「これは旨そうだね」
「今が一番美味しい時期だもの。特に小肌は〆加減で職人の腕がものを言うから、美味しかったら褒めてあげてね」
美夏が店の奥に向かって指をさす。
ほんの少し醬油をつけ、望月が小肌を口に運んだ。彼の「旨い」の一言に、美夏がよかったと応えた。望月は身を乗り出して、今度は店の奥に向かって「小肌、絶品ですよ」と声をかけた。厨房との境目を区切る暖簾の向こうから、「どうも」と低い声が返ってきた。