柏木も望月に倣い、小肌を口に運んだ。芳醇な脂の旨みが瞬時に口を満たす。
唇を湿らせるようにほんの少し酒を口に含むと、小肌の脂が今度は酒の旨みと絡み合った。この瞬間の多幸を味わいつつ、柏木は望月との会話に戻った。
「職場を離れると打ち明けた時、生徒たちは私をいろんな言葉で励ましてくれました」
「自分自身の内面に不安があっても、転職には不安はなかった。そういうことですよね? 何だか、格好良すぎますよ」
なぜ言葉尻に挑発を込めてしまうのか、柏木は自分の幼稚を恥じた。だが、望月の言葉に成功した者の傲慢さが見えたような気がして、苛立っていたのも事実だ。
そんな柏木の乱れをよそに、望月は箸を手にした。ほんのひとつまみの山葵を鮪の赤身の上に載せ、小肌の時と同じように醤油をちょっとつけてから口に運ぶ。ゆっくりと嚙んで飲み込む。
「事故を起こしたのは、営業の仕事を始めて丸一年経とうかという、二月の半ばでした。そろそろ退職して、もう一度高校教師になるための準備を始めようかというタイミングでした。その年の夏に一次試験が行われる公立高校の採用試験を受験して、その間に私立高校の募集状況も調べながら過ごすつもりでいました。その矢先に、底冷えがする真冬の路上で、描いていた夢を自分の手で壊すようなことをしてしまいました。本当にもう、諦めるしかないと覚悟しました」
「どうやってその場を切り抜けたんですか?」
柏木は望月の言葉を待った。
「パトカーを降りた私に、警官は一言こう言ったんです。よかったね、飲んでなくてって」
そのとき望月は、呆気にとられたままただ警官を見つめ続けていたという。
「しばらくの間、その言葉の意味をうまく理解することができませんでした。ようやく状況が飲み込めたとき、私は、はい、本当に良かったです、飲んでなくて、と、答えていました」
望月は苦笑していた。
その様子に、柏木は思わず眉間に皺を寄せていた。
「自分のやったことに責任を取らなければならないのに、うまく誤魔化したっていうことですよね。それって、ずるいんじゃないですか?」
いつの間にか、吐き捨てるようにそう言っていた。
酒に酔わされてか、言葉にも表情にも悪意がこもるのが自分でも分かる。そうすることが決して本意ではないことも。
隣に座る望月の顔を薄く覗き見た。その表情からは柏木に対する怒りは読み取れない。むしろ静かな自信が望月を輝かせていた。月に似ている。柏木はそう思った。同時に背を丸め肩をすぼめ、自分の体が小さくなるのを感じた。
「警官は私が酒を飲んでいることを知っていたのか、または気がついていなかったのか。事の次第は分からなかったし、今でも分からないままです。確かにずるいかもしれませんね」望月は寂しそうに笑った。「でもね、誰が何と言おうと、私はこの経験を最大限に生かそうと思いました。生き直す機会を与えられたように思いました。いつしか身についてしまった傲慢さを棄てて、自分の夢と謙虚に向き合おうという覚悟ができました。夢を根こそぎ奪われる経験をしなければ、夢をもてることの幸せにさえ気づかずに生きてきたと思います」
笑みをふと消し去った望月の顔に、自信を超えた確信が満ちているように見えた。