柏木は言葉を失った。揺るぎない自信を纏った望月の対岸で、不安におののく自分の姿を思い知らされた。ふと、何かの結び目がほどけたことで溜息がもれた。
「夢、ですか」
言葉がぽつりと口をこぼれ落ちた次の瞬間、柏木は叫び出しそうになった。
フラッシュバックのように、白い光に満ちた空間の記憶に包まれた。
来る日も来る日もベッドに横たわっていなければならなかったあの日々。絶え間なく死に取り憑かれ、足元の定まらない不安のなかに溺れていた自分。
「柏木先生」
望月の声が優しい。
「柏木先生の身にも、夢を奪われるようなことが起こったでしょう? さっき話した私の経験とは比べものにもならないくらいもっと深いところで、悩み抜いた時期があったでしょう? そんな人だからこそ、私は先生に信頼を置くことができるし、こうして話をする価値を感じることができる」
柏木は目を見開いた。
「なぜ、それを知ってらっしゃるんですか?」
柏木は急に心が凪いだ自分を不思議に思った。自分にとって知られたくなかった事実を知っている人間が目の前にいる。そのことに怒りを覚えてもよさそうなものなのに、深山の湖面のような静けさが柏木を包んでいる。ついさっきまで、望月の言葉にことごとく突っかかっていた自分の姿が、遠い過去のように思える。
辛い過去をずっと隠してきた。忘れ去ろうとしてきた。しかし、そんなことはできるはずもない。できもしないことに心を砕くのに、疲れ果てていたのかもしれない。
瞬きほどの短い間に、望月が意を決したことが分かる。その目が、硬く尖っていた。
「柏木先生がかつて苦しんだ病気のことをなぜ私が知っているのか、その質問に答えるには、これからある人との約束を違えなければなりません。それが下世話な気持ちからではないと信じてもらえますか?」
「はい」
柏木は即座に答えた。望月は頷いた。
「九月の半ば。相談があるから会えないかと、私のところに矢崎香織さんから連絡がありました」
柏木は、にわかに体が熱くなるのを感じた。自分の体のなかで脈打つ、心臓の存在を大きく感じた。体中の血が沸き立ち、その血が心臓に流れ込んではどくりどくりと全身に押し出されていく。
柏木の脳裏に、弘前駅のホームに降り立つ香織の姿が浮かび上がった。香織はその日の夜、柏木のアパートで料理を作って待ってくれていた。柏木が帰宅する前の時間を使って、香織と望月はどこかで会っていたことになる。
「彼女は、何て?」
柏木はようやくそう口にすることができた。
「春以降、柏木先生の様子が変わってしまったって。いつも何かにいらいらしているように見えるけれど、訳を聞いても何も話してくれない。仕事で何かあったのなら、心当たりを教えてくれないかと」
自分は、香織に甘えていた。自分自身の問題なのだと嘯きながら、揺らいでいる自分を知って欲しくて、いらいらしている様子を誇示していたに違いない。自ら本音を吐露すべき相手にさえ、どこか素直になれなかった。今まさに、望月に対して同じことをしているのではないか。柏木は自分の小ささに眩暈がした。