月見草14

小説

「私は、特に心当たりはないと答えました。仕事の面で難しい問題が起こったようなことはありませんし、柏木先生がトラブルを抱えているようには見えなかったからです。実際のところはどうですか?」
 望月が柏木に答えを求めている。
「望月先生のおっしゃる通り、仕事の面では特に問題はありません。しかし、問題を抱えているのは事実です。それは、あくまでも自分で結論を出さなければならないものです。イライラを周りにまき散らしていたのも、事実だと思います」
「香織さんには、ありのままに話せますか?」
「はい。彼女には、すべてをきちんと話そうと思います。相談しなければならないことでもあるので」
 望月は満足そうな笑みを浮かべて頷いた。
「私は香織さんと、私のところに来たことを柏木先生には話さないと約束しました。その約束を破ってしまったことを、後で謝らなければなりません」
 望月はそう言って苦笑した。
 柏木は瞼を閉じた。ここにきてようやく、あの頃のことを冷静に見つめることができるようになってきていた。
 あの絶望感。
 柏木は、眩しいばかりに白い部屋の光景を思い出した。
 ある時は死を覚悟し、またある時はせいを垣間見た。そんな混沌とした日々のなかで、柏木に生きたいと思わせてくれたもの。それは看護師として世話をしてくれていた香織の、手の温もりだった。
 来る日も来る日も繰り返される抗がん剤治療。それは自分の命を救ってくれるはずのものでありながら、あまりの辛さに苦しみを与えるためだけのもののように思われた。痛みのために、それが何のためのものかも忘れてしまっていた。そんななか、唯一の慰めは柏木の身体からだにそえられる香織の手の温もりだった。結局のところ、人を救うことができるのは人でしかない。柏木の身体が、香織の手が、そのことを証明していた。
 点滴の針の状況を確認するとき、体温計を脇の下に挟むとき。柏木の体に香織の指先が触れるのは、ほんの一瞬でしかなかった。しかしその小さな点から、全身に香織の体温が入り込んでくるのを感じる。その温もりが胸の内側をも温める。
 あるとき、そのことを香織に話した。明日への確証をもてずにいた柏木は、言葉を受けることにも発することにも自分に素直でありたいと願うようになっていた。
 柏木はただ、香織がこのことを心に留めておいてくれればいいと思った。しかし香織はそのときから、柏木の肌に触れる機会を意図的に増やしてくれた。何を言うでもない。ことさらに強調するでもない。頬に首筋に胸に、そっと手の平をあててくれた。ただそれだけで、柏木は救われた思いがした。

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