月見草15

小説

 ある夜には溢れる涙をどうにも止めることができなくて、病室のベッドを囲むカーテンのなかで声を殺して泣いた。ふと、誰かの手が柏木の頬を包んだ。驚いて目を開けると、涙の向こうに香織がいた。その目には、柏木と同じ涙があった。温かな涙が、香織の頬を伝って柏木の胸に落ちた。
 私は、看護師失格ね。
 柏木はごめんと言いながら、頬から伝わる香織の体温に自分の心と体が透明になっていくのを感じた。胸の奥に光が見えたような気がした。
 死んでしまっては誰かの肌を温かいと感じることさえできなくなってしまう。寄りそってもらうことに心が満たされることもなくなる。しかし生きた先に香織がいてくれるなら、どれだけ幸せか分からない。いつしか生きることそのものが柏木にとっての夢になっていた。そして今、かつては不治の病と囁かれていた血液の癌を克服して、柏木は生きている。
 柏木は店の天井を見上げた。
 香織には自分のすべてを見せたい。戸惑いも迷いも情けなさも恥ずかしさも。
 そしてもし許されるのなら、自分についてきてもらいたい。そばにいてほしい。
 弘前で就職が決まったとき、福島で待つ香織に必ず迎えに来ると約束した。しかし今、その約束を違えようとしている。地震と津波と、それ以上の苦しみに晒され続けているの地に、柏木自身が帰ろうとしている。この告白に、故郷で待つ香織はどんな顔をするだろうか。
「柏木先生」
「はい」
「夢があるのなら、迷わず飛び込んでもらいたい。私はそう思っています。そうしなければ、必ず後悔することになるから。後悔に生きれば、今度は誰かに夢を与えることさえできなくなってしまう。そして、誰かを幸せにすることも」
 柏木は、黙ってうつむいた。
「違いますか?」
 望月が、柏木の顔を覗き込んだ。
「いえ」
 自分は望月を目の前にして、胸を張って夢を語ることができるだろうか。目に見えることでしか他人ひとを評価せず、その真意を測ろうともしない。肯定的にではなくむしろ否定的に相手をとらえることで、自分の優位を保とうとする卑屈が染みついてしまっている。他人の良いところを見ようともせず、悪いところにばかり目をつけてさげすむことで、自分の正義を振りかざしたつっもりになっている。そんな自分に夢を語る資格などあるのだろうか。そして、香織を幸せにすることなどできるのだろうか。

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