教職に就いて五年目だ。何かを成し遂げたという実感などない。むしろこれから学び取らなければならないことの方がはるかに多い。何も得ずして立ち去ろうとする自分に、望月は嫌悪を抱くかもしれない。しかし、彼は同時に答えをくれた。こうなることを、柏木はどこかで知っていたように思う。
「私にも新しい夢ができました」
「それで?」
「福島に。故郷なんです」
望月が真っ直ぐに柏木を見た。そして、微笑んだ。
あの日、あのとき、柏木はまだ学校にいた。三月一日に卒業式を終え、三月十一日は一、二年生の定期試験期間中だった。そのため生徒たちはすでに下校していた。生徒たちがいない気安さから、職員室で談笑していた記憶がある。
あの、ゆさゆさと足元を揺り動かす大地の悲鳴が弘前に到達したのは、午後二時五十分よりも少し前だったか。ゆっくりではあるが振幅の大きな揺れが、人間の我慢強さを試すかのように不気味に続いた。ようやく揺れが収まったかと思うと、また揺れた。一体何度体を揺り動かされたのか覚えていない。電気は消え、薄闇が職員室を支配した。
校長の指示により、教職員は終業時間前の帰宅を許された。何も情報がないなか、携帯でテレビ放送を見ることができた同僚の一人が、ニュースの映像を捉えた。皆が頭を寄せ合い、小さな画面を食い入るように見つめた。女性キャスターが太平洋の沖合が震源であることを伝え、各地の震度を読み上げている。宮城、福島の震度が殊のほか高い。実感など湧かず、今起こっているはずのことが嘘のように思えてならなかった。
柏木は即座に携帯を手にした。ディスプレイを開き、まずは福島の実家に電話をかけた。しかし、通じなかった。次に母、兄、姉の順番に携帯に連絡を入れてみたが、やはりだめだった。最も可能性が低いと思われた福島市内の病院に勤める香織の携帯電話には、どういうわけかすぐにつながった。無事だというその声を聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。
家族のいる望月は、携帯電話で妻と連絡を取ろうとしたが繋がらないと言った。とにかく子どもたちの安全を確保したいと、彼が慌ただしく職員室を飛び出した姿を覚えている。柏木も鞄を引っ掴んで自分の車に向かった。
イグニッションにキーを挿して、回した。カーナビゲーションシステムの画面に、ニュース映像を探した。三時十五分頃だったと思う。NHKの電波を捉まえた。そこには信じ難い光景が映し出された。
岩手県釜石市。重油に似てどす黒く、粘性をもっているかのように切っ先の立ち上がった津波が、どくどくと大地を飲み込んでいく。立ち並ぶ家々がなぎ倒され、車がぷかぷかと浮きながら流されていく。電信柱が倒れ、濁流のなかに消えていく。
福島県浜通り地区。港からぐいぐいと押し込んでくる波に、民家が次々と内陸に押しやられていく。何度も何度も押しては引いていく波の先端に固まった家の残骸から、もうもうと黒煙を上げて炎が踊り狂っている。
「こっちは丸一日の停電で済みましたし、私一人なので何とでもなりました。しかし福島市内の実家は、家という箱がひっくり返されたような有様だったそうです。地下で水道管が断裂して、水があふれ出したということでした。しかし、内陸なので津波の被害はありませんでした。沿岸部とは比べものにならないほど少ない被害で済みました。なかなか連絡が取れなかったので心配はしましたが、家族にも怪我ひとつありませんでした」