月見草19(最終回)

小説


「そうですか。教師を待っている子どもたちが、大勢いるんでしょうね」
「事故を起こした原発の、警戒区域や計画的非難区域周縁では特に。その地域の人手を、一人分だけでも補えればいいんですが」
「では、今年度いっぱいで?」
「はい。たった今、決めました。いえ、どこかで、もう決めていたんだと思います。でも、今はっきりと、確信しました。これでいいんだって」
「あとは香織さんに話さなくてはね」
「そうですね。一緒にいてもらえるかどうか。きちんと話します」
 笑っていたかった。だが、ここにきて様々な思いが胸を衝いて湧き上がってきた。同時に、次から次へと瞼を押してせり上がってくる熱いものを、瞳に湛えておくには限界があった。
「じゃあ、乾杯しますか?」
 望月が言った。
「はい」
 柏木は自分のぐい呑を手に取った。望月のものと同様に、美夏が注いでくれたばかりの酒で満たされている。
「そういえば、今夜は満月でしたね」
 望月はそう言いながら美夏の手から徳利を受け取り、彼女のぐい呑にも透明な液体をとろりと注いだ。互いに何も言わず、盃を合わせた。涼やかな音が、三人の空間に満ちた。
「月は隈なきをって言いますけど、私は満月も好き。潔くて」
 美夏が言った。
「福島も、同じ月の光に照らされているんだろうね。太陽もそうだけど、月の光にも境界線がないから」
 望月が美夏の言葉を受けた。
 柏木は自分の意識が遠く彼の地に向かっていくのを感じる。
「そうですね、きっと誰かが、今も私たちが見ているのと同じ月を見上げているんでしょうね」
 ふと腕の時計を見た。もうすでに十二時を回っている。いつの間にか、柏木と望月以外の客はいなくなっていた。
「柏木先生」今度は美夏が柏木の名を呼んだ。「福島に帰られる前にもう一度、ここに香織さんといらして下さい。御馳走しますから。この人の奢りで」
 美夏が望月を指差した。
「えー」
 目を見開いた望月がお道化どけた声を上げた。
 望月と美夏が、この場に華やぎをもたせてくれているのが分かる。三人で笑った。
「ぜひそうさせていただきます。有難うございます」
 柏木は笑って言った。
 笑いながらも、湛えきれなくなった涙が瞬きによって柏木の頬を伝った。何のために涙を流しているのか、自分でもよく分からなかった。この先、その温かさを忘れたくはない。ただ、そう思った。
                                             了

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