倉科は右肩を引いて、初めの攻撃を避けた。手負いの狼は前に進むことだけを心に決めている。すでに複数の刑事に対して発砲している男だ。ナイフの軌道に迷いはなかった。
一旦倉科の横をすり抜けた島崎は、即座に身を翻し、再び体を倉科に正対させた。右利きの島崎が右半身をとっているのに対し、倉科も同じように右の手と足を前に出した。
右相半身。
目の前の光景を確認する、声にならない自分の声が倉科の胸の内に響いた。右手にもつナイフの軌道をかわしてその背後に回り込むには、右半身の方がうまく対応出来る。そのことを幾度もの訓練と実戦の果てに、倉科は見い出していた。
島崎は焦っている。それはそうだ。まごついていれば、その他の刑事がすぐにでも追いついてしまう。島崎はナイフを持った手を倉科めがけて真っ直ぐに突き出した。その動きに対し、倉科は退かなかった。前に置かれた右足を滑るように前方に踏み出し、島崎との距離を詰めた。そして踏み出した右足が地面を十分に踏みしめないうちに左足を素早く引きつけた。
倉科は自分の右手の甲が、ナイフを持つ島崎の、やはり右手の甲に触れそうな位置にまで距離を縮めた瞬間、手の平を翻して相手の右手首を掴んだ。血糊にぬるりと滑る感触があったが、相手の体をコントロールするのに十分な力を込めることができる。島崎が前に踏み出した力を利用して、倉科は島崎の右手首を掴んだ手をそのまま地面に向けて導いた。そうしながらも、右足を軸にして地面にしっかりと体重を残し、今度は歩み足で左足を踏み込んだ。倉科の体は前後にも左右にもぶれることなく大地に足をつけているが、島崎の体はふわふわと軽く、まるで躍っているようにとりとめがない。倉科の体さばきによってナイフを持つ右手がいよいよ地面に落とされる直前になって、島崎はもっていたそれを取り落した。地面に倒れ込むとき、人は自然と手の平から落ちようとするものだ。そして島崎の体が地面に倒れ込むと、倉科はすかさず右足で、島崎の右肩を踏みしめた。島崎の右腕の動きを完全に封印することが出来たことで、ナイフの危険もまた過去のものとなった。島崎を地面に押さえ込んでいる間に警察官の到着を待ち、あとは罪に穢れたこの男の身柄を引き渡すだけでいい。しかし、倉科はそうはしなかった。
島崎の肩を踏みしめた右足になお一層の力を込め、その体を完全に地面に固定した。その上で、島崎の手首を掴んだ右腕をゆっくりと持ち上げた。地面にうつぶせている島崎からすれば、右腕が不自然な方向に曲げられていくのである。あまりの痛みに島崎は短く息を呑んだ。倉科の力によって、その右腕はなおも上へ上へと引き上げられていく。さらに激しさを増す痛みに、島崎はいよいよ口を大きく開けて悲鳴を上げた。
その声の奥に、ボコッと鈍い音が響いたのを、倉科の耳は確かに聞きとった。それと同時に、島崎の悲鳴が最高潮に達した。
倉科は逡巡の中にあった。そして一瞬の迷いを振り切ると、島崎の体を解き放った。だがそれは島崎の自由を一旦保障したに過ぎず、島崎が自由に動くことが出来るようになったここと同義ではない。実際、のろのろと立ち上がった島崎は、力を込めることさえできない右腕を肩からぶら下げたままだ。
倉科はもう一度島崎に歩み寄った。その動きに気がついて見上げた島崎の顔には、恐怖が張りついていた。
ゆっくりと島崎の左手をとった。体が、やりたいことのプロセスを覚えている。倉科は自分の右手の親指を相手の左手の甲に当てがった。中指と薬指の間を押さえるのが最も効果的だ。親指以外の四本の指で相手の左手の拇指球を押さえる。そうすることで、島崎の左手の平は、すでに自身の顔に向けて不自然に曲げられている。あとはそれぞれの指先に力を入れ、捻りあげられた島崎の手に左手を添えて切り下ろしていけば、バランスを失って再び地面に放り出されることになる。その時点でもなお、左手首は極められたままだ。
やがて島崎は体のバランスを維持できなくなり、その体を地面に叩きつけた。受け身をとらずに地面に放り投げられた体は、どんと音を立てて仰向けに横たえられた。あとは左手で相手の肘を回せば、うつぶせに寝かせることが出来る。倉科はその手順を踏んで、島崎を地面に貼りつかせた。背中を向けることになるため、島崎は倉科の姿をとらえることが出来ない。倉科は島崎の左腕を完全に支配した。
今度もまた、島崎の断末魔の叫びを耳にしながら、倉科はこの男の左肩の関節を外した。
そして島崎の体から離れた。
倉科が壊したのは、島崎の左右の肩だ。足は両方とも無傷であるはずなのに、島崎は体を起こすことができない。恐らく立とうとはしているのだろう。凍みた雪を掻き散らすように地面に上半身を擦りつけてもがいている。しかし、体は芋虫のように奇妙な動きを繰り返すばかりだ。一向に立ち上がることができない。あとは暗闇に阻まれて島崎の行方を見失った刑事の誰かが、この場所にたどり着けば事足りる。それまでの間、倉科はこの場所に留まることを決めていた。下手にこの場から立ち去ってしまうと、かえって何らかの疑いをかけられかねない。拳銃を所持した男が警察官を次々と傷つけながら逃走した。その銃口が倉科にも向けられた。正当防衛であったことを主張すれば、捜査の協力者として疑う余地のない立場を築き上げることができる。
足元には島崎が、激しい痛みにうめき声をもらしながらなおも地面にうつ伏せている。疲れ切ったのか、荒い息を繰り返すばかりでそれ以上体を動かそうとはしない。倉科はそんな島崎の傍らに立った。
夜の闇に沈む新緑の間を縫って時折降り注ぐ月の明かりが、地上に折り重なる枯葉の一枚一枚を識別することが出来るほどに明るかった。
